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第3セクター
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国際的には、政府(第1セクター)企業(第2セクター)のいずれでもない、民間の非営利組織を総称して第3セクターと呼ぶ。その前提には、自発性と個人責任に基づいたこうした活動が社会に不可欠であるという認識がある。ところが日本で第3セクター、あるいは3セクというと、官(多くの場合地方自治体)民合弁による事業会社のことである。これは一方では公共財一般について、オカミ万能、オカミ依存の体質が強く、民間の非営利活動そのものに対する認識が希薄なこと、他方公益法人は官庁外郭団体と同一視され、あってもなくてもどうでもいいくらいの認識しかないこと、したがってこの世の中を少しでも住みやすくしよう、という仕事はもっぱら政府と企業の仕事だ、という認識が一般的なことによると思われる。
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多元的価値観
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文字通りさまざまな価値観が存在すること。それらの間に支配・服従の関係が成立することを余儀なくされるか、平和共存ができるか、それとも健全な競争的並立関係で推移することが可能なのか、が問われることになる。おそらくは「異なってあること」を相互に認めあい、多様性相互の触れ合いによってより豊かな文化を創りあげていく、そのためには「異なってある」ことの相互理解が重要だ、というのが広く受け入れられる見解であろう。しかし当然のことながら、ある価値観の、他に対する許容度が問われざるを得ず、それによっては「文明の衝突」シナリオとか、唯一神のもとの世界統一、という発想も生まれてこよう。
NPO存立の基盤はいくつかあるが、その代表的な理由として多元的価値観の存在があげられることが多い。つまり「志を共にする人々」が集まって組織する無数のグループ、というイメージである。志、つまり社会において大事であると考えること、これをなすべきであると信ずることの多様性だと言ってよい。のみならずNPOが本質的に自発的であり、他に対してヘゲモニーを求めない、という特性を持つという定義が正しいとすれば、これはまさに多元的価値観共存の申し子とでも言うべき存在であろう。
しかし、具体的なある社会や、クニのシステムというものを念頭におくと、このNPOの多様性には、多元的価値観の相克が問題とされるのとやや違った意味で問題がある。それはNPOの持つ行動領域の限定的性格、あるいは視野の狭さとのかかわりである。NPOに対する社会的認知と評価が必ずしも十分ではない日本ではまだおとぎ話のように聞こえるかもしれないが、NPOが「非国家アクター」(Matthews)として国際関係に大きな地位と影響力を持つようになると、「そんなに力を持ってよいのか」という懸念が発生することになる。
志を共にする、というのは、とりもなおさず限られた少数の同志、したがって少数の立場の代表である。そんなNPOが、選挙制度によって選ばれたわけでもなければ、実定法に基づいた職務権限によって行動しているわけでもないのに、そんなに力を持ってよいのか、ということである。実は企業の私的利益の追及についても、私的利益追及の総和は総体としての社会の利益に一致するのか、という見地から類似の議論がなされたことがある。「神の見えざる手」そのほかの論拠によって、市場経済の枠組みの中では一応この論点はクリアされたと考えられている。NPOについて少数利益代表の自己主張の総和が、何らかの制度の枠組み(価格メカニズムによる市場、民主主義的手続きetc.)を通じることなく、社会全体の利益と合致するかどうかが問われなければならない。あるいは、いかなる「制度」のフィルターを通せばそれが可能かを確かめなくてはならない。
ここでの重要な要素はそれらNPOの資源(主としてオカネ、しかしそれに限らず人的資源なども含む)がどこから調達されるかである。仮にその大部分が民間から調達されている場合には問題は比較的少ない。 これは換言すればそのNPOが市民(企業を含む。企業の社会貢献」参照。)の支持を取りつけていることであり、その範囲でその力量に応じてサービスを提供する、ということだから、その影響範囲が大きかろうが小さかろうが、一種の需要・供給という市場関係が存在していると考えてよいからである。問題は資源の一部または主要部分が公的資金によってまかなわれる場合である。仮に行政が、あるいは国際機関などが何らかの理由で、サービス提供を自ら行なうよりはNPOの手に委ねる方がよい、と考えたとしよう。1つの考え方は、他の財・サービスと横並びにして何の違いもない、とするものだろう。つまり、役所が鉛筆を買う、道路工事を発注する、それと同じで、民間企業に代わってNPOから財・サービスを購入するにすぎないと見る。業務委託の場合もあるだろう。高齢者に対する給食サービス業務をNPOに委託する。これならば純然たる契約関係であり、特段のことはない。民間企業を相手にする場合と同じように、品質管理が話題になることもあれば、瑕疵担保だって考えねばならないだろう。ここではガバナンスとか憲法89条は問題にならない。購入すべき財・サービスの規格、態様が明示され、規定されているからである。これが逆になったらどうだろうか。つまりNPOの側が財・サービス、あるいはプロジェクトやプログラムを提示して、「よさそうなもの」を官の側が選択して購入する、という場合である。官の予算の款項目の中に限定した使途目的が明示されていれば、先の場合と同じだ、と考えることができる。それではその限定のされ方がもっと包括的で漠然としていたらどうなるか。国際交流のため、とか、草の根の開発活動のため、といったカテゴリーで予算枠が決められ、何をどう選ぶかについてかなりの裁量の余地がある、といった場合である。
こうしたオカネの使い方について官の側がアカウンタビリティを確保しようとすれば、NPOを憲法89条にいう「公の支配」の下におく、より具体的に言えばその活動を管理監督下におくことになろう。しかし、それはNPOの側のガバナンスに大きな問題を提起することになる。役所が目ひき袖ひきして事細かにNPOのオペレーションに介入するのでは、何のためにNPOと協力するのかわからない。この間の事情は政府、企業、NPO共同の活動と類似の問題を提起することになる。NPOの自主性を尊重し、その活動に期待するというスタンスを徹底しようとすれば民法34条は言うに及ばず憲法89条改正によるほかはない。その場合には一方において官の側がどれほどの自由度、寛容度をもってNPOに接するか、それに対する市民の支持があるかが問われると同時に、NPOの側のアカウンタビリティがいかに制度的に保証されているか、ということになろう。
ちなみに多元的価値観については、いまひとつの問題点がある。それは「啓発された利己心が、常に公益のために作用するというのは、経済学の諸原理から正しく演繹されるものではない。」(ケインズ)というもので、シビル・ソサエティあるいは自由な市民活動が最大多数の最大幸福を実現する保証はない、とする。要するにてんでんばらばらに公益(あるいはある集団の利益)と信じるところを追及したり、非営利活動に突っ走ったりさせるのは、たかだか無秩序を生むだけで、効率的な政策実現とか、資源の有効活用という意味で問題がある、というものだ。この議論の代表的な類型はコーポラティズムである。この議論にも傾聴すべき点はあるが、安易に同調すると先のオカミによる指導監督と野合してしまうから注意が必要である。規制撤廃の話と同じで、目的追求のための具体的な知恵が問われているにすぎない。
たとえば公益法人(のいくつか)が税制上の優遇措置を悪用して収益事業を通じてボロ儲けをし、それを中に貯め込んでいるのがけしからん、社会全体の福利向上に役立っていない、としよう。けしからんからといって、あの活動はよいがこれはだめ、とか、資産保有形態として株がだめで定期預金ならよい、などというパッチワークに走るのではなく、本来の活動と縁の薄い収益活動には企業並みの課税をする、貯め込んで持っている資産の一定部分は公益目的のために支出を義務づける、といった方法を講じればよい、ということである。
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タコツボ型社会
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1958年に丸山眞男が言い始めて、その後人も知るように人口に膾炙した。彼によれば「近代日本の学問とか文化」「あるいはいろいろな社会の組織形態」が「それぞれ孤立し」「並列している型」であるのをタコツボに見立てた。ちなみにこの逆に「元のところが共通していて、そこから(中略)分かれて出ている」ような組織はササラ(竹の先を細かく割って束ねた楽器〔広辞苑〕)型という。タコツボ型組織では「属している仲間だけで通用する言葉なりイメージなり」に満足しがちである結果「組織としての偏見がそれぞれ抜きがたく」(丸山)存在することになる。単一争点(single issue)をめぐって結成されることの多いNPOにも当然他山の石と観念すべきことである。
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玉虫色
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(玉虫の羽が光線の具合で緑色や紫色に見えたりすることから)見方によっていろ
いろに受け取られるような、曖昧な表現(広辞苑)。英語ではiridescence。平成15
年(2003)の公益法人制度改革に関する閣議決定がその一例であるとされる(C’s)。
利害関係が輻湊する関係者すべての「顔が立つ」ように、故意に採用されることが多
い。まれに、正確を期するあまりこうならざるを得ない場合があるが、操作定義の採
用によって回避し得ることが多い。
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単細胞
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細菌、鞭毛蟲など一生を一つの細胞のままで過ごす生物のこと。転じて、考え方が単純な人のことをいう。確信犯、天動説と同様にNPO界にはよく見られる類型であるが、これらすべてが同居するといささか困ってしまう場合が多い。NPOがどこかでひっそりと良いことをしている場合には、あどけない単細胞は有益な存在であることを喪なわないが、社会的に一定の機能を果たし、影響力が出てくるとそれでは済まされないことになる。ちょうど日本が東洋の片隅で大した存在ではなかった時にはそれでよかったことでも、世界の経済大国になると許されなくなる振る舞いがあるのと同じことである。
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小さな政府
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社会福祉を中心に肥大化した政府機能と、それに伴う財政問題の解決として唱えられるようになった考え方。他方では政府による各種規制を撤廃して、より市場原理を機能させたいという文脈で用いられることもある。 そのための施策の一つとして「民間能力の活用」があげられることが多い。民間ができることは民間に任せて、政府の仕事はどうしても政府でなければならないことに絞っていこう、というのはきわめてもっともな話である。特に公共財の提供をめぐって、政府が財源を提供し、実際にサービス供給を行う役目はNPOに任せるのは、おそらくコストも安くつくだろう(高齢者福祉については、民間委託の方がかなり安いという地方自治経営学会による実証的報告もある)し、きめの細かいサービスも期待できるだろう。ところが時としてこれまでは公的資金で提供していたサービスを中止して、それに代わるものとして民間財源に期待する場合にもこの論理が用いられることがある。それが合理的な判断である場合も、そうでない場合もある。
たとえば伝統的に大きな政府に対する反感が根強いアメリカでは、レーガン大統領の時代に、一種の福祉切り捨てを行う代わりに、数多いNPO活動(thousand points of light)に期待する、という立場をとったことがある。これは賛否両論を呼んだが、特にサラモンがそれまでの米国における財政的に独立したNPO像を幻影であるとしてしりぞけ、このセクターの公的資金への依存度を明らかにしたのは有名である。
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中間法人法
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民法34条による公益法人が、その設立に必須の要件として「公益ニ関スル」ものであることを求める結果、公益に関係ない社団は「権利能力なき社団」として法人格取得の途がない。同窓会とか、業界団体のようなものがこれにあたる。これに対処すべく制定された法律(平成13年6月15日法律第49号)。
先の通称NPO法を含め、100を超える法律でつぎはぎしながら作られた法人がまた1つ増えたことになる。
この法律が策定される過程で、NPO・NGOに理解の深い碩学が関与されていたこともあって、公益法人制度の持つさまざまな欠陥や、非営利性と公益性をめぐっての基本的な問題に踏み込んだものになることを期待する見方もあった。
しかし結果はそうした問題意識に対して何らの回答を与えるものとはならなかった。のみならず、新・中間法人の事業はすべて課税対象とされる。この結論に至る議論の過程が一切公開されなかったのでつまびらかではないが、 会員制組織の会費収入に次年度繰り越し分が発生した際、それが課税対象になるという解釈を許す余地があり、きわめて問題である。
むしろ、一部関係者の努力によってこの法律制定に際し、衆参両院の法務委員会で付された付帯決議の方にはるかに重要な意味がある。これは「公益性の認定の在り方など民法34条の公益法人に関する法制の見直しを含め、その基本的な法制の在り方を速やかに検討する」ことを政府に求めたものである。もっとも付帯決議そのものについて言えば、参議院の方には「公益法人として真にふさわしい事業内容と運営を確保するため厳正に指導、監督を行う」(公益法人指導監督連絡会議)といった旧態依然とした認識も見られるから、手放しで喜んではいられないものの、民間非営利活動について抑圧的・制限的でさえあったわが国の制度がこれを契機に見直されることを強く期待したい。なお、平成18年(2006)の公益法人制度改革によってこの法律は廃止された。
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町内会
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カテゴリーとしては日本最大の民間非営利団体の1つ。全国自治体のほぼすべてに
おいて組織され、その9割近い区域において存在し、その総数は27万5,000にのぼる。
自治体行政から広報誌配布、募金協力、住民への連絡などの事務を委託される場合が
多く(総数の約7割)、補助金を交付されている団体も半数近い(昭和55年〔1980〕
自治省調査)。第二次大戦中に大政翼賛会がこれを下部組織とした(昭和17年〔1942〕
8月14日閣議決定。後にGHQにより破棄)ことの記憶が強く、官製団体と考えられがち
で民間非営利団体であるという認識は薄いが、れっきとしたNGO・NPOである。
法人格がないことから、不動産等の所有を巡って争いが起きることが多く、平成3
年〔1991〕の地方自治法改正により「地縁による団体」として法人格が認められるこ
ととなった。現在では中間法人法による中間法人を選択する途も開かれている。
残念ながら、町内会に関する実証的な研究は質・量ともに十分とは言えない。横文字組織に浮かれる前に足下を固める必要がありそうだ。
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定款
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公益法人である財団・社団法人のうち、社団法人はその設立に際して、その目的、名称、事務所、資産に関する規定、理事の任免に関する規定、社員資格の得喪の6項目(必要的記載事項)について定めた書類を作成しなくてはならない。これを定款という。ちなみに株式会社のそれもやはり定款と呼ぶが、必要的記載事項はさらに多い。財団法人の場合には、上記6項目のうち最初の5項目について同様の義務がある。これを寄付行為と称する。聞きなれない言葉だが、要は財団法人の(社団法人・株式会社における)定款に当たるものである。
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出羽守
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何かというとすぐ「・・・では」といいたがる人のこと。・・・の部分には外国の国名が入るのが一般的である(例:アメリカでは)が、時には特定組織や地域(例:わが社では・おらが村では)になることもある。
一般的には良いこと、素晴らしいこと、自慢できることを、自分が知っている、経験しているというメッセージの前置きとして使われることから、ひけらかしの好きな人の代名詞としても使われる。
NPO界にも出羽守は決して少なくない。先のアメリカを筆頭とする外国型に加えて、この世界に多数生息するのが現場型変種である。「学者はそう言うかもしれないが、現場では」「現場ではそんなことを議論しているヒマはない」等。
「道聴塗説」参照。
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天動説
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地球が宇宙の中心であり、太陽や星は地球の周りを回っているとする説。転じて行動や考え方のパターンがすこぶる自己中心な人をいう。確信犯もこれに近い。有害な場合も無害な場合もありNPOの世界では珍しくない。ちなみに英語ではPtolemaic。反対の地動説はCopernican。
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道聴塗説
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出羽守の変種。論語陽貨「子曰道聴而塗説徳之棄也」から、「道を歩いて行く途中で誰かからある説を聞くと、それを自分の心に会得するところもなくて、そのまま自分が路上で逢う他の人の耳に移して説き聞かす」(諸橋)こと。受け売り、あるいは知識のひけらかしの場合が多い。NPO界では特に環境運動家によく見られる。京都プロトコルが無条件に正しかったり、いまにも熱帯雨林がなくなる、といったケースである。確信犯と共存することも多い。
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特殊法人
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特定の法律によって数を限って設立された法人。より狭義には「法律により直接に設立される法人又は特別の法律により特別の設立行為(政府が命ずる設立委員が行う設立に関する行為のこと)をもって設立すべきものとされる法人」(総務省行政管理局)。現実にはこのうち、総務省が毎年行う業務審査の対象になるもののみを指し、100近くが存在する。巨大なものが多く、その収入は100兆円を超え、常勤職員数も53万人近い。これとほとんど同じでありながら、総務省の審査を受けないことから特殊法人と呼ばれず認可法人といわれるものが40余り存在する。
特殊法人の肥大化が問題とされ、「1つ作るのなら1つつぶせ」という総量規制がなされるようになってから、より簡単に設立できる公益法人の制度による指定法人なるものも出現するようになった。ほとんどが外郭団体
そのものである。
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特定公益増進法人
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寄付金に対する税制上の優遇措置が認められる団体の1つ。個人あるいは法人の寄付金は、国または地方公共団体に対するもの、財務大臣が指定する教育、科学、文化、社会福祉などに関する全国的で緊急性の高い募金活動に対するもの(いわゆる「指定寄付」)とこの特定公益増進法人に対するものに限って優遇措置が認められている。この特定公益増進法人は昭和63年(1988)に、従来の「試験研究法人」の範囲を拡大して導入された考え方で、「公益の増進に著しく寄与する」と財務大臣によって認められた法人に対する寄付金について優遇措置を講じる。
財務省がこれにあたると認めるか認めないかについては、この制度ができた当時に比べると、かなり柔軟な解釈が行われるようになってきているが、それでもいくつかの問題点が残っている。その1つは一般のNPOのうち(学校法人、社会福祉法人を除けば)公益法人しか対象としないことだが、これはむしろNPOについての法制不備の問題だから、そちらで対応すべきことかもしれない。むしろ問題なのは、公益の増進に著しく寄与する、として29項目が限定列挙されているのだが、その多くの項目について視野の狭さが見受けられること(たとえば「海外における我が国についての理解の増進を図る」のは認めても、その逆、つまり日本で海外のある国についての理解を深める、さらには相互理解、はまったく考慮されていない)、さらには精粗さまざまなその30近い項目のうち、いくつかにまたがって複合的な活動をする団体も一応対象にはされているが、あくまでも限定列挙のどれかの項目に該当する、というのが念頭にあるようで、それ以外のものは例外的な扱いに近い。わが国において多目的財団とか、コミュニティ財団がまだ例外的にしか存在していないことの反映かもしれないが、そういう複合的なNPOこそが幅広い市民の支持を必要とすることを考えると、いかにも旧態依然とした規程だという観は拭えない。
平成8年(1996)4月現在1万7,000団体(ただしこのうち1万5,000近くは社会福祉法人)がこれに当たると認められている。
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特定非営利活動促進法
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正式には平成十年三月二十五日法律第七号。通称NPO法。
日本の多くのNPOは任意団体であり、法人格を持っていない。これによる不便さを解消すると共に、名実ともに市民権を得たい、というNPOからの要望は1990年代始めから徐々に盛り上がりを見せ始めていた。特に阪神大震災(平成7年)におけるボランティアのめざましい活動の後で気運は一気に現実化の兆しを見せた。このための方法としては民法改正によるか、あるいは特別法制定によるほかはない。
後者の方法による試みがこの法律である。民法上の公益法人についてこれまで問題にされていた諸点(特に主務官庁による設立認可をやめて、届け出による準則主義に転換すること)が改善されたのは画期的であるとみなす人が多い。しかし、特別法制定によったため、民法法人との間の整合性を考慮に入れざるを得ない(新法によって成立する法人と、既存の民法による公益法人と、どこが違うのかが明確に区分されていなければならない)ことから、いくつかの問題点が発生した。また、税制上の優遇措置が先送りされたのも将来に解決を待つ課題である。
この法律を、「取りあえず」一歩前進と見るか、本来の民法改正を避けた姑息なもの、と見るか、評価は分かれる。が、法律の内容もさることながら、法制定の過程において数多くのNPOが議論に参画し、立法府や政党の側にもこれに真摯に耳を傾ける姿勢が見られたことはきわめて大きな収穫であったように思われる。
この法案審議の最終段階で面白い議論がいくつか浮上した。その1つは、「市民」という言葉に対するアレルギー(Pekkanen)である。市民活動とか市民運動が反体制と認識されることに起因するものであると思われるが、ひところの米国で「リベラル」というレッテルが否定的な意味で用いられていたのに似ている。
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ドナー
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donorすなわち寄贈者。ちなみに受け手はdonee。ODAの世界でよく使われる用語だが、民間非営利組織でも財団がその基金を遺贈などによった場合や、会社・個人などの寄付によって設立された際などに、それぞれ故人や会社・個人はこう呼ばれる。下世話に「カネを出せば口も出す」という通り、とかくの介入をしたがるのが世の常だが、ODAの世界ではdoneeの自発性をなくし、依存のみを増大させるドナーの過干与(donor driven)を戒めている。民間非営利組織の場合にも、設立に際しての事業目的、あるいは事業範疇がドナーの意向に忠実であるべきは当然だが、それ以降は独立した法人としての意思決定、あるいはガバナンスが要求されるのは当然であって、雇われマダム意識やドナーのご意向伺いの姿勢は褒められたことではない。とはいえ、企業が設立何十周年を記念して設立した財団などの場合、その経営者は親企業の顔色をうかがったり、ご指示を仰いだりしがちなのはよく見られる現象である。これが事業の質にどのような影響を与えるかは自明だが、逆に誰かの意のままになったり、意を迎えたりするのを潔しとしないメンタリティもまた強いことから、開き直ってドナーの意向に忠実なのは美徳であると論じる向きもある。独立組織のガバナンスを理解しない御用学者の議論と言うべきだが、人間の常として自己正当化の欲求は強く、この種の議論に事欠かないのもまた事実である。
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泥棒に十手捕り縄
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やや古風な表現だが、読んで字のごとく盗人に警官をさせること。冗談だろう、という話だが、これを警官が泥棒というのでは、さもありなんとは言わないまでも大して面白くないことに注意。要するに前提条件としてどだい無理に決まっていることを無視してかかるところがこの俚諺のミソである。例えばお手盛りの公益法人を設立するのに熱心な主務官庁が、その指導監督にあたる、というのもこれだという人もいる。
「公益法人指導監督連絡会議」参照。
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