NPO小辞典


財団・社団法人
民法34条の定める公益法人の2つの類型。財団の方は一定のオカネ(基本財産)を持って、その運用利益によって活動費をまかなうのに比して、社団の方はメンバー組織の性格が強いものが多く、会費収入で運営費をまかなう。

いずれも設立にあたって主務官庁の許可が必要なことは同様であるが、活動の範囲がある地域に限定されるか否かを中心に地方所管のものと中央省庁所管のものに大分される。設立許可をした官庁がその後の指導監督にもあたることになる。財団・社団法人はそれぞれ一万数千団体あり、合計で2万6,000余。地方所管の団体の方が多い。善かれ悪しかれ、日本のNPOの中では組織的にも、経済的にももっともしっかりした団体がこの範疇に入るのだが、それでも年間支出規模は5,000万円以下、有給職員数3名以下というミニ団体が過半数を占める。プロフェッショナリズムに対する期待も、まだ限界があると言わざるを得ない。

財団法人の基本財産は、取り崩さないでその運用利益だけで活動をしようというのだから、普通の会社の資本金とは使い勝手のみならず、資金効率が大きく違う。たとえば100億円寄付して財団を作ってみても、年間事業費は数億円ということになる。企業寄付にあたって、毎年の経費補助として、社団法人の会費というスタイルを選ぶ会社が多い理由の1つはここにある。それでも財団を作るメリットは、安定性と継続性にある。つまり、会費集めというのは、景気の動向に敏感に左右される。それである年は活動経費がゼロ、とは言わないまでも激減したというのでは具合が悪い。他方で安定・継続性という見地からは、長期的インフレヘッジのためには、資産ポートフォリオ多様化と共に、運用収入の一部を積み立てて基本財産化していくほかはない。 社団法人は一般の株式会社(営利社団法人)と同じく、それぞれ株主総会と取締役会にあたる社員総会・理事会という相互牽制機関によるガバナンスを予定している。これに比して財団法人が構造的にそれを欠く、という点はしばしば指摘される。これを宿命的な短所と観念するか、民主主義に内在する、多数決による衆愚のおそれ・意思決定に時間がかかる・将来に比して現在利益偏重の判断に陥りがち、という3つの欠点(山崎)に対する修正の試みとみるかは議論が分かれよう。

ちなみに平成18(2006)年の公益法人制度改革によって、設立にあたっての許可主義は廃された。

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CSR
Corporate Social Responsibilityのアクロニム。したがって直訳すれば企業の社会的責任ということになるが、そういう一般的な意味ではなく、この語には特別な意味内容が持たせられ、それが市民権を得ているから、語の不用意な使用には注意が必要だという指摘がある(Henderson)。この論者によればCSRとは「持続可能な開発(sustainable development)」を可能ならしめるために、企業は財務・環境・社会の3側面から経営を評価する「トリプル・ボトムライン」を採用し、多くの利害関係者(stakeholder)の意向を経営政策に反映させる仕組みを持つことを義務づけるものである、という。多くの場合、それは企業活動やグローバリゼーションを悪とみなし、それに掣肘を加えない限り世界は滅びる、という誤った救世主義(salvationism)に基づくものであり、結果、健全な競争が阻害され市場経済を破滅に導く、とする。

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事業評価
ある目的の下に、これから行おうとする、現に行いつつある、あるいはすでに行なった事業を分析し、ある基準に当てはめて判断すること。もってまわった言い方だが、要はある事業がやってみるだけのことがあるか、うまくいったか、もっとうまくやるとすればどうすればよいか、についての情報を得て判断をしよう、ということである。仕事といわれるほどのことをしている者ならば当然すぎるくらいのことで、特記することでもないが、NPOの場合には少し別の意味で重要な作業になる。

NPOの活動はほとんどの場合、価格メカニズムによって支えられた市場機構にのらない。つまり供給サイドの思い込みだけでサービスが提供され、需要の有無によるチェックが保証されていない可能性がある。これは単に財の浪費のおそれがあるのみならず、提供されるサービスの質の向上が期待されない、あるいは約束されないことになる。(政府によって供給されるサービスの場合にも同様の問題があるが、ここでは触れない。)

これに対処するために、これまでに数多くの手段や知恵が注がれてきた。事業評価もその1つである。プロの評価者が何百人と存在するアメリカのような国と違って、日本では評価を定例的に行うNPOが数少ない上に、行う場合でも部内評価がほとんどである。部外者に評価を依頼する場合でも、ある分野の専門家に「余技として」見てもらうことが多い。

評価には大分して2種類あり、あるプログラムをやった方がよいか止めた方がよいかを問うもの(形成評価・summative evaluation)と、よりよく目的を達成する方法があるかを問うもの(効率評価・formative evaluation)があるとされる。このほかにもさまざまな目的から、さまざまな評価手法の試みがなされてきている。が、その多くはあらかじめ設定された事業目的がどのように達成されたか、あるいは達成されなかったかを、客観的な指標を用いて述べようとするもののように見受けられる。

しかし、NPOにとって実務的な見地からは、終わってしまった事業がうまくいったかどうかに点数をつけてみる、という趣きのものよりは、よりよい結果を出すためにはどうすべきか、将来に向けて学ぶべきものは何か、という方により需要が強いのは当然である。その中でもかなり有力な手段として注目されているのが、企業セクターにおける経営手法の応用で、特に品質管理における製品検査から工程管理、工程管理からPLへ、という管理思想の流れ、つまりできてしまったものの良否を問うよりも、製造のプロセスをおさえてその改善を図る、という考え方はNPOにも大きな影響力があるものと思われる。これは事業評価というよりはほとんど組織の評価といってよいかもしれない。

ところが、NPOの事業評価というと通信簿のように優良可といった点数をつけることだ、とか、監査・検査といった高校時代の風紀委員みたいなものを連想してアレルギーを起こす向きが依然として少なくない。それというのも、箸にも棒にもかからないような種類の仕事をしていたり、何だか知らないけれどやっている仕事の内容を公開したがらないようなNPO(まがい)の団体を俎上に上げて糾弾しよう、という姿勢が、より良い仕事がどうしたらできるのか、という真面目なそれと混同されていることにも一因がある。また、オカミの管理監督的発想、さらにはそれに伴うNPOガバナンスの侵害、といった防御的な発想も強い。評価手法の開発、あるいはそれぞれの活動領域と活動の態様に応じた評価手法の選択はこれからのNPOの活動にとって非常に重要な分野だけに、このあたりの思想的混乱を早く整理しなくてはならない。さらに信じ難いことに、評価の目的も手段も明らかにしないまま、中世の異端審問官さながらに、親団体(それがお役所のこともあればそれ以外のこともある)の権威を振りかざして、断罪意識で評価というコトバをもてあそぶ向きもあるようだ。さらでだに評価文化が定着していると言い難い風土の中で、苦々しいことだというほかはない。

 とりあえず、評価というのは何らかの目的があって行うものであり、したがって、何のために評価をするのか、しているのかをはっきりさせない限り評価というのは無用の作業である、という当たり前の事実をはっきりさせることから始めるのがいいかもしれない。

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資源調達
多くのNPOにとっての最大の悩み。NPOにとって必要な資源はカネ、ヒト、情報などさまざまなものがあるが、やはりカネの問題(fundraising)が一番大きい。資金調達には自力によるもの(典型的なのは収益事業)と、他からの寄付の2通りがある。メンバーシップ団体の会費収入は、現実には両者の中間の性格を持つものが多い。資源問題は単に絶対額の問題だけではなく、資源の使い勝手にも関係がある。

たとえばある特定の使途に限定(earmark)して受け取った資源は、使途を特定しないで組織の一般的な目的遂行のために受け取ったもの(general grant)に比して使い勝手が悪い。逆にプロジェクトを明示して協賛を仰ぐ方が、組織の一般的な管理経費の支援を依頼するよりもやりやすいことが多い。NPO本来の意義というのはもちろんプロジェクトを実行していくことなのだが、「所帯をかまえる」ため、さらには新しいプロジェクトの「仕込み」のためにどうしても自由に使えるオカネが必要である。この間の事情に理解ある寄付・助成機関が増えることが望まれると同時に、収益事業を含む自力資源調達(これには出向者、事務所スペースなどの現物資源提供も含まれる)の意義が再認識されよう。

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市場の失敗
market failure。世の中の多くの財・サービスは市場原理によって提供されるが、その市場機能がうまく働くことが原理的に不可能な場面を指す。1つは市場は存在するものの、独占などによってそれがうまく機能しない場合であるが、話をややこしくしないために、ここでは取りあえずNPOとは関係ないことにしておく。2つめは市場の成立それ自体が困難な場合で、公共財がその代表例であるとされる。要するに買い手が対価を支払い、売り手を満足させることができそうもない。結果として売り手を買って出る人が現れない。よって、必要であるにもかかわらず、ある財・サービスの供給が途絶えたり、不十分なものになるケースである。その場合、政府やNPOが市場に代わってそうした財・サービスを提供することになる。前者は税金として徴収したオカネで供給するし、後者はもともと買い手の側がふさわしい対価を払うかどうかに関心がない。この議論のミソは、さらに政府の失敗が発生し、それに対してもNPOは機能する 。だからNPOは2通りの失敗が予想される場面でもっとも優れた供給主体である、というところにある。もちろんそんないいことづくめの話がある訳がない。NPOにも固有の弱みがあるのだが、それはまた別の話である(シビル・ソサイエテイ参照)。 情報の非対称性による買い手のNPO選好もこれに含める場合もある。

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持続可能な開発
sustainable developmentの日本語訳。1987年「環境と開発に関する世界委員会」(委員長:ブルントラント・ノルウェー首相〔当時〕)が公表した報告書「Our Common Future」の中心的な概念で、「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」のことを言う。この概念は、環境と開発を互いに反するものではなく共存し得るものとしてとらえ、環境保全を考慮した節度ある開発が重要であるという考えに立つものである、とされる。ところが、これが容易におまじないに転化する理由があって、それはこの定義の曖昧さに起因する。つまり「将来の世代の欲求を」完全に「満た」そうとすれば、石油は今日一滴たりとも使えないことになるのは自明であり、このあたりを意識的に、あるいは意図せずに濫用しようとする向きが後を絶たない。「どれほどの期間の間に(how soon)、どれほど多くの人々に(for how many people)、どれほどの水準の(on what level)」開発を提供しようとするかを定義しない限りこの概念は空疎だ(Borlaug)とされる理由である。

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指定法人
外郭団体」「特殊法人」を見よ。

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シビル・ソサエティ
最近世界のNPO界でよく使われるようになった流行語、あるいは「おまじない」の1つ。Civil Society 。「市民社会」とでも訳すのがよいのかもしれないが適訳がない。もともとは17〜18世紀ころにロックやルソーなどによって、身分的支配を排する自由な市民の社会、という意味で使われ始めたのだが、最近では「あらゆる分野におけるNGOの存在と、それらNGOが機能を果たし、相互に連携することを可能にするような各種制度および機関のネットワーク」(Hsiao)というのが標準的な定義。ひらたく言えば、さまざまな分野に多くのNGONPOが存在し、しかもそれをとりまく政府や企業などが、その活動を認め、かつ支持するような社会ということだろう。いささかNGOが「お乳母日傘」で育てられなければならない、と言っているようで希望的観測が定義に入り込んでいるような気もする(その理由は後述)が、この定義によれば今のところ日本はシビル・ソサエティではない。

ちなみにこの「おまじない」が多用されるようになったのには別な理由もある。つまり、NGOとか非営利団体というのは、いずれもナニナニでない、という定義である。あなたの職業は何ですか、と問われたときに役人でもなければ会社員でもない職業です、と答えるのにも似て、元気が出ないことおびただしい。そこで、自らの活動に関して、肯定的かつ積極的な意味合いを持つ定義を試みたい、という思いが込められる。

そうした意味のほかに、これは公共財供給にあたっての1つのモデルの提示であると考えることもできる。

このモデルには2つの欠陥、あるいは問題点がある。1つは志を同じくする人々が任意に集まったにすぎない、という意味で、選挙などの制度化された民意の支持を受けていないNPO公共財配分について力を持つ、という政治・社会的正統性の問題。2番目は、「NPOは、一般に限界収入と限界費用が一致する点では生産を行わない。この意味でNPOの生産活動は『効率的』ではない」(山内)、つまり有限な資源の浪費につながる可能性がある、という経済的な正統性の問題である。このそれぞれに対して一応の弁明、あるいは反論を加えることは可能であるが、むしろコーポラティズムやイスラム文化などとならんで、公共財供給にあたっての「1つの」モデルである、として限界を認識する指摘であるととらえる方が生産的であると思われる。

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市民社会
シビル・ソサエティ」を見よ。

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社会装置化
市民の善意とか社会的な行動意欲の盛り上がりを、一過性のものにとどめないで、持続性を持った社会機能の一部に作り上げていくためには、どうしてもそれを組織的に社会の中で装置化(institutionalization)していく必要がある。さまざまなインターミディアリ組織の設立はその一例であるが、これは当然のことのように見えて、実は簡単な話ではない。

というのも、たとえばNPO支援に際しても、個々のプロジェクトの直接経費に対して助成や寄付に応じる組織は多いが、プロジェクト関連の間接経費(NPOの事務所経費、人件費など)を支援するものは少ない。アフリカで飢えに苦しむ幼児の写真を見せて、「あなたの1,000円でこの子にミルクを」をいうキャンペーンに賛同する人の方が、飢餓の原因を調査し、その対策を策定するプロジェクトに寄付をする人よりはるかに多いのと同じことである。NPOの社会的機能が定着するためには通過しなければならない関門であるが、決して安易なものではない。

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社会的起業家
ソーシャル・アントレプレナー」を見よ。

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社会的責任投資
Socially Responsibile Investment(SRI) の日本語訳。「個人的な価値観や社会への関心を投資に反映させ、企業の環境や社会的な対応等も考慮する投資手法」(安田総合研究所)。Ethical Investment(倫理的投資)といわれることもある。軍需産業、たばこ製造などにかかわっている会社は投資対象しない、とか、女性・高齢者などの雇用に積極的な会社には投資する、といった具合である。日本でも最近、ポートフォリオ投資などでこれを掲げる会社が現れてきている。もちろん一般投資家に受け入れられている考え方(日本の個人投資家のうち、投資判断にあたってCSRをある程度は考慮すべきだとするものが89.1%にのぼる〔環境省調査〕)だが、特に公的機関や、財団法人の基本財産の運用などにあたっては、欧米ではかなり普及した手法であるといわれる。わが国では「基本財産は、安全、確実な方法、すなわち元本が確実に回収できる」方法を取らねばならず、したがって「価値の変動が著しい財産・株式」などで「管理運用することは」「適当でない」という信じがたい閣議了解(!)に基づく指導監督が存在していることから、NPOにとっては残念ながら縁の遠い話ではある。

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収益事業
公益法人、あるいはNPO非営利でなければならないが、オカネを稼いではいけないか、というとそんなことはない。公益法人については法人税法に33業種の限定列挙があり、この範囲内であれば収益事業を行った場合に軽減税率の適用を受ける。

非営利組織が活動を行っていく場合、安定した収入源が必要なことは言うまでもないが、大きな基金を持って、その運用収入に依存することができる団体はそんなに多くはない(たとえば日本の財団法人で30億円以上の正味財産を持つものは5%以下)。また会費収入に対する依存にも限界がある(たとえば社団法人では収入規模が3億円を超えるものの会費収入依存度は50%以下)。収益事業に対する期待はこの意味で大きなものがあるが、これにもいくつかの問題がある。

1つは軽減税率で、同種事業を行う営利企業との取り扱いの不公平さが問題とされる。特に事業規模が大きくなったり、公益性に[名を借りた」営利追及まがいの存在が目立つようになると、時に新聞紙上を賑わしたりもする。一定規模を超えたり、本体事業と無関係な収益事業については軽減税率を正当化し続けるのは困難であるし、止めた方がよいだろう。

とはいえ、本体事業との関係といっても、その濃淡にはさまざまなものがある。たとえば美術館を運営している公益法人が、ギフトショップで美術書や絵葉書を売ったり、来館者の駐車場を有料にしたりするのは本来の事業の一環だと考える人が多いだろう。それでは美術書の出版を始めたらどうか。また、画商として絵画売買に乗り出したり、美術館を高層化して上にオフィスビルにして賃貸するのはどうだろうか。この点について一般的な基準を設けることは決してやさしくないが、公益法人自身が何らかのモノサシを作って課税当局との間に話し合いをもって自主規制するのが一番妥当な方法だろう。ちなみに公益法人指導監督連絡会議の前身である公益法人監督事務連絡会議は昭和47年(1972)に(1)本来事業に比べて過大でないこと(2)公益法人としての社会的信用を傷つけないものであること(3)本来事業に支障を及ぼさないこと、という3条件を付した。その後の指導監督連絡会議もこれを踏襲している。肝心の点は明らかになっていない反面何ともお節介な内容で、公益法人性悪説、あるいは公益法人理事会というのは経営判断のできない未熟児、とでもいわんばかりの話である。

もう一つは、組織内部における収益事業に携わる人と非営利公益)事業に携わる人のテンションの問題である。両者に求められる資質とかエトスがどうしても異なってくるだけに、この両者の間の軋轢は、ひとつ間違うと組織理念そのものをおかしくしかねない。

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準則主義
法人の設立にあたってクニが取る態度にはいくつかある。歴史的に見るとまず特許主義、つまりある法人を設立するためには個別の法律を作って、それによって法人格を与えよう、というもので、わが国の特殊法人はこれにあたる。それではあまりに面倒でもあるし、一定の法律上の要件を備えていれば、クニが許可すればよい、とするのが許可主義である。ただし許可を与えるかどうかはクニ、したがってお役所の自由裁量ということになる。設立がきわめて制限的になるのはいうまでもない。これをもう少しゆるめて、一定の法律の定める要件を充たせば、お役所が認可することによって法人格を与えるというのが認可主義。許可主義と違うのは、一定要件を備えていればお役所は必ず認可しなければならない、という点である。いわゆるNPO法は認証という用語を使ったが、実質的にはこれである。

これに比べて法律の定める一定の組織を備えれば、当然に法人格を認めるのが準則主義で、強いて言えばお役所の認可というワンクッションがあるかどうかの違いがあるものの、あまり認可主義と本質的な違いはない(幾代)。

 公益法人の設立にあたっては準則主義をとるべきだと古くからいわれてきた(川島)が、一つの難問(のように見える問題)がある。それは、準則主義によれば、一定要件さえ備えれば、届け出だけで設立できる。実際の活動が公益的であろうがなかろうが、実は利益配分を行っていようが、お構いなしに「公益」法人を名乗る、僭称することができる。それでよいのか、という話である。看板を信用して寄付をした。安心してその経営する老人ホームに入居した。どうしてくれますか、ということになる。

 しかしよく考えてみれば、これはこれまでオカミの(許可主義による)お墨付きを信用していたのに、これからはそれができなくなる。いきなり消費者責任だと言われても困ります、と言っているに等しいことがわかる。  しかも、そのお墨付きたるや、これまでいくつかのいわゆる「不祥事」が示すように、そんなに霊験あらたかなものでもない。 また準則主義によって財産の安易な財団法人化を認めると、相続税を取り損なうおそれがあるから、許可主義によらないのなら財団法人制度そのものをなくしてしまえという暴論もある。

 一定の要件を備えた非営利法人(その要件については「公益」参照)に対して付与される税制上の優遇措置については、その法人の活動実態を当然課税当局が判断することになる。結果もし非営利性その他の要件が否定されるならば、優遇措置はとられないだろう。それがただちに是正されればよし。そうではなくて一定期間(たとえば3年間)継続するようであるならば、関係者(財団にあっては理事・評議員・監事、社団にあってはこれに社員が加わる)あるいは司法当局が告発して、裁判所が他の法人類型への移行か、解散を命じればよい。 もともと許可主義を取っている現行民法34条のもとでも、税制上の優遇措置は個々の税法によって付与されているもので、必然的に存在するものではない(星野)。その意味で、準則主義と原則(非)課税があたかもトレードオフであるかの如く語る議論(石村)はミスリーディングであろう。

平成18年(2006)の公益法人制度改革では準則主義は取り入れた。しかし、公益性を有する法人については、これを上記のように単なる税制上の取り扱いの違いとせず、第三者委員会の認定にまって、法人類型としていわゆる「二階部分」の扱いをすることとした。公益性の旧態依然とした定義と同様、あまり先駆的な改革とは言いかねるように思う。

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情報開示
本来は投資家保護のために企業の経営・財務情報を適正に公開する義務から始まった言葉だが、最近ではむしろお役所のデータや意思決定に関して用いられることが多い。公益法人あるいはNPOもご他聞にもれずこの対象とされるようになっているが、こちらの方は、アカウンタビリティあるいは経営の透明性との関連で求められることになる。特に公益法人については何やら伏魔殿のごとき先入観を持つ論調も少なくないが、その一因は情報開示の不在にあることも反面の事実である。とはいえ、情報開示が徹底的に不足しているのは、群百の小規模の公益法人よりは巨大規模の外郭団体であることは意外に知られていない。悪名高い「公益法人の設立許可及び指導監督基準の運用指針について」(平成10.12.4.:公益法人指導監督連絡会議参照)は情報公開を要する項目として10項目をあげるが、これらはいずれもほとんど冗談のような内容で、こんなものさえ公開できないようならば、よほど後ろ暗いのではないか、と思われても仕方ないといった体のものである。それよりも、専従職員1人しかいないような公益法人に、これら書類を「主たる事務所に備えて置き、原則として、一般の閲覧に供すること」という無神経さの方に驚く。もしかして物好きが100人押し掛けてきたらどうしようというのだろうか。このIT時代。当然電子情報として指導監督におあたりになる主務官庁が提示すべきものであると思われるのだが。それよりも、徹底した情報開示が民間非営利組織のもつ正統性の欠如という本質的な問題への回答になり得る、という側面の方が重要だ。

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情報の非対称性
売り手と買い手の間で、持っている情報は通例売り手の方が圧倒的に多い。つまり、騙そうとかかった際には売り手の方が有利である。その意味で情報は非対称であるとされる。ある種の財・サービスについては、この要素は競争原理によって排除されることを期待できにくい場合がある。たとえば高齢者が余生を過ごすケア付きマンションとか、乳幼児の託児所など。そんな場合にNPO非営利という属性から、ボロ儲けをしようという動機が少なかろう、というので、消費者はより安心してそちらを選ぶ可能性が高い、という議論である。

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助成財団
財団の中で、他の組織や個人に対して助成金を交付し、その活動を支援する仕事をするもの。アメリカでは助成活動のみを行い、自分で事業展開はしないというタイプの財団が1つのカテゴリー(grantmaking foundation )として存在する。他の国々では助成と同時に自らも事業を行うものが多い。

助成金の交付の対象、方法は財団によってさまざまであるが、有限な資源をいかに有効に活用するか、という智恵の産物であることが多い。ただ、多くの助成財団がプロジェクト助成に偏って機関助成に消極的であること、および精算助成の方式をとるものが少なくないこと、については助成金を受け取る側から改善を望む声が大きい。

助成財団はいろいろな仕事の「めきき」をするわけで、この仕事に携わるプログラム・オフィサーといわれる人々の能力が問われると共に、先見性とか、先駆性を通じて社会にインパクトを与えることが期待されている。

ただ、どうしても公の分野における民の役割の認識がはっきりしないわが国では、官における公平性・画一性さらには納税者に対するアカウンタビリティの議論と、民間助成財団におけるプログラム選定のプロセスの公平性とが混同されがちで、プログラム・オフィサーたちが、仲間内でわいわいがやがやと助成プログラムを策定しているのはネポティズム(なれ合い主義・みうちびいき)である、外部の専門有識者の客観的判断を受ける方が好ましい、といった見当違いの批判が珍しくない。外部専門委員会方式は、学術研究助成、あるいは表彰制度、さらには部内にスタッフを抱える余裕がないような場合にはかなり有効な手段である。しかし、この方式からは、無難で万人受けのするプログラムを開発することはできても、創造的で魅力的なそれを期待することは不可能であるといってよい。助成財団は受動的(passive)・能動的(active)・協働的(cooperative)の3段階を経るといわれるが、この第3段階はプログラムスタッフの存在を抜きには考えることさえできない。

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素人の出る幕ではない
 「素人」は室町時代花伝書に用例があり、「出る幕ではない」は江戸時代浮世風呂に見えるが、いつ両者が結合しで今日よく用いられる用法になったかは必ずしも定かではない。語義そのものは自明で詳説の必要はないが、これを「素人」の側がコメントして、手を振りながら舞台から退いていくのと、そうではなくて「玄人」の側、あるいは第三者が吐き捨てるようにこう言うのとではかなり趣きが異なろうというものである。

 今回検討が進んでいる公益法人制度についても、税制の問題を巡っては、税制調査会の基礎問題小委員会にも非営利法人課税ワーキンググループが設けられ、そこでも議論されている。こちらの方では「内閣官房の方に引っ張られた議論はする必要はない」とか、官房懇談会の意見の一部は「理解の範疇を超え」るとか、かなりにべもない扱いを受けているようだ。これをしも、税制の専門家は素人出演の必要を感じない、と受け取るべきかどうか。自然科学の分野では「専門性の高い問題に関しては、十分な専門的知識を持たない者に発言権はなく、専門家を信頼し、彼らに検眼を移譲すべきである」という態度、つまりむずかしい話は専門家に委せろ、という立場へのアンチテーゼは、PUS(public understanding of science:市民の科学理解)をはじめさまざまなかたちで提起されている(小林)。特に危機管理能力を政府正統性の根拠として指摘した上で、「リスクの特定化を専門家だけに任せておいてはならない。最初から市民が関与すべきである」(ギデンス)とする議論は有力である。わが国における税金議論はこれと異なりまだ権威主義の残滓が強いとはいえ、これに挑戦できるとすれば、それは他でもないNPONGOの真骨頂というべきであろう。税調メンバーである日本NPO界のスタープレーヤーの一人も広く意見を求めて、この問題に対する理解度を深めようと努力されている。帰趨が注目される。
この委員は一期を終えたところであえなく再任されなかった。耳に痛いこと、聞きたくないことは排除したい、という官庁関連審議会の特質をまざまざと見せつけることになった。

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人格なき社団
権利能力なき社団」を見よ。

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人道主義NGO
広義には人道的動機、つまり悲惨な境遇にある人々の救済、不当な環境や待遇を受けている人々の生活向上や権利回復のために活動するNGOを指すが、狭義には災害救援、医療サービス提供など比較的短期で緊急性の強い活動に従事するNGOのこと。NGO活動の原点とも言うべき類型で、歴史的には宗教活動を起源とするものが多い。その動機と、通例は劣悪な作業環境も省みない活動態度は尊敬と称賛に値するものとされる。

しかし国内紛争状態の通常化、難民の増加、途上国における災害の頻発などにより、そうしたNGO組織の存在が恒常化するにつれていくつかの批判、あるいは議論がなされるようになってきている。

もっとも代表的なのは「人道主義NGOは人間の悲惨さに潜在利益を有している(Koushner)というコメントで、1つにはそれら既存組織が組織維持のために、より大衆にアピールしやすい活動や宣伝に重きを置くようになること。第2に国際機関を中心とした巨大な予算(98年には約5兆5,000億円。そのうち4分の1がNGOを経由して支出されたという〔Inter-Agency Standing Committee〕)が投入されるようになったことからビッグビジネスの観を呈するにいたり、多くの問題が発生してくること、に対しての問題提起である。そのうち代表的なものをあげれば、1つは組織の巨大化に伴って組織維持のための資源調達の色彩が強くなることで、中間管理経費が肥大化する傾向である。これは組織におけるプロフェッショナリズムの定着を考え合わせるとある程度やむを得ない側面でもあるが、資金集めのキャンペーンではともすると触れたがらない組織が多い。たとえば難民の幼児の写真を掲載して「あなたの寄付してくださる月500円でこの子供は飢えから解放されます」という類で、現実にその500円のうちこの子供に渡るのがいくらなのだろうか、という話である。アカウンタビリティの視点から問題であるとされる。またいま1つは、たとえば1990年代のソマリア危機の際、殺到した支援食糧のうち実際に難民キャンプで人々の口に入ったのは3分の1で、残りの3分の2は盗難などで横に流れ、内戦の武器弾薬に化けた(Maren)というようなケースで、善意を標榜する行為が、かえって悲惨さを拡大する側面についてである。

要するに悲惨な光景に対する情緒的な反応に過大に依存することの危険性であるが、さらに問題なのは、こうした反応を中心にプログラムが組織されると、悲惨な状態の発生を食い止める、あるいは予防するための活動に対するエネルギーや資源導入が二次的なものになってしまうことである。この意味では、予防外交の分野における人道主義NGOのより積極的な参加が望まれている。

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神武天皇
現在の天皇のことを語ろうとすると、そもそもの神武天皇から語り起こして連綿として今日にまで及ばないと気が済まない人、あるいはその論法。また、かつての共産主義国の公式演説が、偉大なるXXX同志の業績賛美から始まって、延々とひとくさりが終わらないと本題に入らないような場合にも転用される。NPO界には結構神武天皇が多く即位されており、プロジェクトの説明に先立って、組織設立の理念と経緯、さらには設立時のリーダー(ご本人であることが多い)の人となりから経歴、いにしえの苦労話といかにして苦難を乗り越えたか、さらには経営理念と哲学について一場の訓示があり、それからオフィスにコンピュータが1台必要だから助成してほしい、という話になることも少なくない。

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推定無罪
有罪であることが立証されないかぎり、無罪であるとされるという近代法の原則の一つ。無罪であることが証明できないかぎり有罪の推定を受ける、というのは考えただけでもぞっとしない状況だが、実はそれに類した事件は現在の日本でも珍しくない。というのも、本来この考え方からは、逮捕・起訴されたとしても、有罪判決が下されるまでは無罪の推定がなされてしかるべきなのだが、マスコミや世論動向はほとんどの場合そのような動きを示さない。「火のないところに煙は立たない」とばかり、逮捕されただけで犯人扱い、というのはよく目にするところである。もっとも企業行動や環境問題に取り組む告発型NGOなどの場合、この原則にどこまで忠実でありうるかは悩ましい問題を提起するかもしれない。

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性悪説
人間の本性は悪であるとする荀子の説。孟子の性善説と対立。

日本における過剰な規制の存在理由の1つは、官以外の存在についての性悪説によるという意見(住田)もある。ただ、事実「悪い」存在が結構多いのみならず、何かが起こったときに自己責任の原則よりは、「オカミは何をしていた」という安易な監督強化の声があがりがちだという風潮もあずかって力あるのが厄介である。

NPO、特に公益法人についても事情はまったく同じで、規制の多くはこの思想によっているといって間違いない。ただここでも問題なのは、事実悪いことをする法人があったり、悪いことをするというのではないが、お役所の下請け同然の仕事をしたりするもの(「外郭団体」参照)があったりするのを、十把ひとからげにして規制しようというところにあるのは明らかである。悪いことを「するといけないから」事前に事細かに縛っておこう、というのは不適当で、公益法人が違法行為をしたら現行法の下で事後に指導監督をするか、設立を取り消せば良いことである。
これとは別に、特に 助成財団の一部にもこの傾向が見られる。この立場からは、助成金が本来の事業目的外に流用されたり、はなはだしい場合には関係者の私用に供されることもある、という可能性を常に念頭に置くべきであるとされる。結果、健全な経理システムや、きちんとした事業報告の要求というレベルに留まらず、事業評価が不正摘発( policing )行動と化したり、不必要に費用のかさむ会計監査行為も辞さないことになったりしがちである。これがさらに嵩じて、常態として「安全な」「悪いことをしようとしてもできないような」プロジェクトに対する助成に偏ったりすることになると、 民間非営利組織としての自殺行為につながりかねない。

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成果評価
事業評価の一種で、事業の成果についてそれがどううまくいったのかを検証するもの。また、それをさらに広く解して、事業の担当者・関係者の貢献の度合い、あるいは資質についての評価という要素を加味することもある。

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精算助成
助成資金の交付にあたっての考え方の1つで、助成対象となる事業の実施に、実際にかかった費用を限度として交付するというもの。これに対するのが渡しきり助成で、これは、何らかの根拠に基づいてある事業遂行に必要と認めた金額を「渡しきり」にし、現実にどれほどの費用が使われたかは問わない、というものである。

当然のことながら精算助成にあたっては、事業実施に要した金額の精算・確定が必要になる。これは事業評価あるいは成果評価とは別の、会計監査あるいはauditの視点からの作業になり、どこまで綿密に行うのか、行うべきかが問われることになる。NPOアカウンタビリティという意味から、最低限の経理的な透明性あるいはしっかりした処理が必要とされるのは当然だが、何をもって最低限とするかは一義的に定めにくいことから、とかく過剰な作業を伴う傾向なしとしない。

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税制上の優遇措置
公益法人は税制面で優遇されている。これには大別して2つの性格のものがあり、1つは所得に関するもの。すなわち受け取る利子などの収入や、本来の活動に伴う所得について所得税、法人税などが免除される。また収益事業を営む場合に軽減税率の適用があるほか、その利益について公益事業への一定限度の繰り入れが認められる。(収益事業からの所得と、本来事業からのそれとは性格がまるで違う。同日に論じるべきではない、という意見もある。前者には営利企業との equal footingの問題など、他の要素が入ってくるからだとされる。)
もう一つは公益法人に対する寄付について、寄付者に経費控除を認めるもの。具体的には、公益法人のうち特定公益増進法人の資格を持つか、指定寄付の認定を受けた団体に対する寄付について控除が認められる。

こうした税制面での優遇措置は、世界中で民間非営利団体についての法制度を持つほとんどの国で採用されている。優遇措置の理由については、本来公の機関が行うべき仕事と同じ範疇の仕事をするからである、とか、そうした活動の意義を認めそれを奨励するためである、といった議論のほか、公益法人には収入から経費を差し引いた残り、という意味での所得が発生しない、とか、公益法人は単なる受託者として一般受益者に給付する機関にすぎないから課税になじまない、など諸説がある。

特に広く一般から寄せられる寄付は、財政的にはともかく、精神的にはNPO存立の基盤とも言うべきものであるだけに、現在の特定公益増進法人の枠をさらに拡大してはどうかという声も多い。ちなみにあるNPOが広く一般から寄付を集めているかどうか、という事実をもって、そのNPOが公益目的に奉仕しているかどうか、ひいては税制上の優遇措置を付与されるのに適しているかどうか、という考え方もある(いわゆるパブリック・サポート・テスト)。もっとも、税制上の優遇措置が市民寄付の増加にプラスの影響を与える、あるいは低調な市民寄付は優遇措置の不在による、という意見は必ずしも実証されていないのみならず、本来そうした人為的な制度とは無関係なものである、あるいはあるべきだ、という反論もある。さらに、恣意的な公共目的の選択を許すことは租税制度の空洞化に連なる、という意見もある。

しかし、こうした議論とは別に、何やらわけのわからない「公益法人」という団体に税金の優遇措置があり、それが不明朗な事件の温床になっている、といった認識があるのも事実である。この認識は「公益法人」さらにはNPO一般がわが国において正当な評価、したがって市民権を得ていない、ということに起因する、というのが1つ。もう1つはNPOに対する税の優遇とはどういうことか、についての理解の欠如による、というのがその理由である。

ひらたく言ってしまえば、阪神大震災や日本海の重油流出事故にかけつけた多くのボランティアが、会員制の社団法人組織を作ったとしよう。それがメンバーからわずかの会費を徴集して、事務作業や派遣の手続きの一助にしていたとしよう。さらには、一般市民からその団体に寄付が寄せられたとしよう。そんな収入に対して税金を取るべきでしょうか、取った方がよいでしょうか、というのが議論の本質なのである。

民間寄付が盛んなことで知られる米国において、寄付金に対する税制上の優遇措置の理由について興味深い議論があるのでそのいくつかを紹介しておく。1つは民間非営利団体の活動は公共財の供給であり、当然に公的補助を必要とする。それを税金の形で吸い上げた資金を政府の手を通じて配分する、という方法で行うよりも、自発的な個人の選択に任せる寄付(の税金控除)というかたちをとる方が効率的である。特に政府の手による配分は多数決原理によらざるを得ず、少数者保護や、きめの細かさという見地からは個人寄付の方が望ましい、というもの(subsidy theory)。いま1つは、本来所得課税の基本にある考え方は、納税者の個人的受益に対して負担を要求する、というものであり、他者のために使う場合、自分のために使うのと同じ税負担を求めるのは公平さに欠ける、というもの(equity theory)。どちらも控除に限度額を設けることをおのずから論理的に必要とする点が面白い。

NPOの権利能力、つまり法人格がどのようなものであるか、あるべきかという話と、それにどの程度の税制上での優遇措置を与えるか、という話は必ずしも同じではないことに注意しておく必要がある。

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正統性
legitimacy。正当性とも書く。社会学、政治学で用いられる概念で、社会学では正当性、政治学では正統性の方を好んで使う傾向がある。社会学の見地からは、何らかの支配・被支配「関係が存在・維持されるためには、被支配者の内発的な服従が必要である。」その「支配を正当なものと考える根拠」のことだとされる。一方政治学では、「政治権力への服従を社会倫理的に正しいとする一般的な了解をいう。」とする(いずれも有斐閣・辞典)。

通例民主主義社会では、選挙によって選ばれた代議士、彼(女)らによって作られた法律、法律による支配、を法的支配あるいは法的権威の根源とする。これに対して民間非営利組織は、いわば自薦(self-appointed)組織であり、その行動あるいは影響力行使はそうした制度的な裏づけを伴わない。これを正統性の欠如ととらえる見方がある(Matthews)。特に強制力を持った法的機関の欠落した国際社会では、NPONGOが事実上大きな力を持つことに対して、この面から見て疑念が呈されることがある(Ottaway)。
 このうち前者については、正統性の根拠を多くの人々による支持ととらえ、情報開示によってそれを担保しようという考え方がある。特に財政・資金面でのそれを追求することによって「衆目の下で活動する」ことが正統性の確保そのものだという。また、後者については答責性の問題として、単なる合法性を上回った基準を自ら設定し、それを任意の申し合せのかたちで公表することによって回答を与えようとする意見がある。(入山)
 他方、民主主義に内在する問題点として、(1)多数決と衆愚の危険性、(2)合意形成に要する時間によって喪われる機動性、(3)現在利益志向による長期的視野の欠如、の3点をあげ、民間非営利組織はそれらの欠点を補うために民主主義社会にビルト・インされた装置であると説く立場(山崎)もある。この立場からは、定義的に正統性の問題は存在しない。

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政府、企業、NPO共同の活動
より住みやすい社会の建設をめぐって、政府・企業・NPOの三者がそれぞれに活動を展開しているのはよく知られているが、シビル・ソサイエティの実現に向けて、この三者の共同作業(intersectoral cooperation)の必要性が論じられるようになった。政府と企業の共同活動はこの文脈からは問題意識に入ってこないから、ここでの主役はNPOということになる。こと改めて三者の共同関係が強調されるようになった背景は4つある。

1つは、これまでNPOの他の二者からの独立性を意識する論調が強かった。告発型NGOは言うに及ばず、アメリカでも民間非営利組織のことをindependent sector (直訳すれば独立セクター)と呼ぶことがあるのを見てもわかるように、両者から距離をおいた独立独歩のあり方こそがこのセクターの比較優位を保つ所以のものだとする傾向があった。しがたって依存する資金源も市民の個人寄付が主要なものであり、またそれが望ましいとされた。しかし、このセクターの個人寄付依存度はわずかなものであるとするサラモンの研究は、この「神話」(サラモン)に一石を投じたものであった。するとNPO活動原資はどこから来るか。自己調達(営利事業と、メンバー制組織であれば会費収入)か、公的セクターしかない。
またそれと並行して、いわゆる大きな政府、高福祉社会に財政的な危機が訪れ、歳出カットを正当化する1つの論拠として、民間活力の活用、あるいは個人責任の範囲拡大がしばしば唱えられるようになる。いきおいこれまで公的機関の提供してきたサービスはカットされるか、あるいはより能率的な提供主体を探すことになっていく。これが両刃の剣の議論であることは言うまでもない。
3番目はシビル・ソサエティの議論そのものなのだが、既存の(政府・公的機関を中心とした)制度や組織に限界と疲労が見え始め、民間非営利組織の活力に期待感が持たれるようになる。ただここでいう「期待感」、あるいはNPOに対する「熱い視線」について、誤解されてならないのは、NPOがいますぐ官僚機構にとって代われるとか、公的セクターはNPO活動に対してオカネだけ出して口は出すな、という意味ではないということだ。前者は幻想を通り越して妄想に近いし、後者は本来公共財提供の原資が税金というかたち以外でいかに可能か、と正面から問うべき話である。

残念ながら日本ではこの点はいまだ十分に顕在化しているとは言いがたい。公共財提供主体はあくまでオカミであり、その他の主体はたかだか「すき間産業」である、という認識が一般的だからである。
4つ目に、企業の公益性という側面が、公害問題とか廃棄物問題、さらには企業倫理といった見地から改めて問われるようになってきている。「よき企業市民」とかPLというのはその現れの1つだが、民間非営利組織の看板である「非営利」性の境界がやや不明確になってくる、のみならず、営利・非営利のクロスオーバーまで論じられるようになる。ここではすでに協働の域を超えているのかもしれない。

これを、より良い社会とは何か、そしてそれはどうすればいちばんうまく実現できるのか、という問いかけに置き換えるとき、これまで(特にわが国では)比較的認知度の低かったNPOの機能を見直すという視点が出てくる。そして、それは社会全体から見れば限られた範囲ではあるかもしれないが、新しい行動主体がもっとも求められている分野を特定してみることに繋がる。さらにNPOを中心にすえて共同作業を考えてみようとする 、というのはむしろ当然の帰結であるといってよい。

しかし社会機能には必ず既得権や利害関係が付きまとう。「共同の活動」という時に、相互の主体としての尊重(NPOガバナンス)と、それぞれの機能とその比較優位に対する認識を欠けば、単なる下請けとか、意のままになる従属機関の発生、という結果に落ち着かざるを得ない。そしてその危険性は、特にNPOの相対的地位が弱体な社会においては強い。「政府に批判的なNGOが政府主催の会議に招かれたがるのは理解できない」といった発言がまかり通る風土ではなおさらである。

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政府の失敗
government failure。公共財は、ことの性格上政府の手に委ねられる場合が多い。しかし、政府によるサービス提供は官僚主義によって評判がよくないほか、画一的、一網打尽的になりがちである。これは欠点というよりは、多数意見にしたがって行動すべき政府の特性としてむしろそうあってもらわねば困る、という側面もある。だから、少数者に対するきめ細かいサービス提供などの場合には、NPOの方が向いている、という議論である。

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説得定義
定義の中に情緒的な意味を含んでいる言葉を忍び込ませるやり方。通常は受け取り手をある方向に誘導する目的で用いられる。persuasive definition。「あれは真のNPOではない」あるいは「NPO活動の真価は税務署によって判断されるようなものではない」というのはその一例。
 「説得定義は有効な説得技術として政治的実践の領域ではきわめて大きな機能をいとなむ」「しかし理論的認識の領域に説得定義をもちこむことは断じてゆるされない」(碧海)

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操作定義
operational definition。「曖昧あるいは多義的な語または概念を、簡潔、測定可 能かつ明確な方法で定義」(Geoghegan)する手法。測定可能ということは検証可能 ということだから、その手法自体が定義に含まれる、つまり証明方法を定義自体が示 しているのがミソである。

たとえば公・私の区別に関して、それはどう違って、いかに区分されるべきかが先 に定義されているのではなく、「自らの価値と知識を前提として、どのようなものに 規制や配慮を加える必要があると思うのかを決定し、その上でそれらを「公共的」で あると認める」(ゴイス)ことにすればよい、そういうものだ、というのは典型的な 操作定義だが、これによれば公私の区別は時代と必要に応じて、民主主義的な手続き でその都度決めればよい、ということになって不毛な神学論争は避けられる。が、こ れでは物足りなく思う人もいるかもしれない。そういう人は、やはり公なるものの本 質を定義すべきだ、と議論することになる。

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総務
 総務(部)とは、最近流行のブログ「はてなダイアリー」によれば「general affairs department 企業や団体における事務部門の一つ。業種や企業規模によって分掌する事務が異なり、大企業になるほど分掌する事務が限定される傾向にある。
  • 零細企業においては経理を含むすべての事務を行う。
  • 中小企業においては、経理を除く、人事・労務・法務・庶務などを分掌。
  • 大企業においては人事・労務部門は独立した部署が存在し、それ以外の法務・庶務を分掌。
  • 企業によっては、法務部が独立し、いわゆる庶務を分掌。
  • さらに大企業になると、用度部門、営繕部門まで独立して存在し、社内調整や突発案件等のみを分掌。」
ということになるらしい。つまり、企業における一昔前の出世コースとしての総務部長、というイメージから、「総務なんかいらない」と揶揄の対象にさえなった時期を経て、コンプライアンスだ、リスクマネジメントや、数多いハラスメントなどという時代の流行語の中でしっかりダイ・ハードな復活の気配を見せている、といえなくもないようだ。もちろん少し気の利いた経営者なら、徹底した社員サービスチャンネルとして以外には、ソームの仕事などというものはアウトソーシングの対象にこそなれ、拡大させたりはしない。ただ、人間の本性の中には(ややうしろめたい)権力志向の傾向があって、それが大義名分を得た(ように思われる)場合には、にわかに正義の仮面をかぶって「管理強化」と称した「ソーム強化」が起こったりする。 ここまでの議論は一般企業についてのそれであるが、お役所の場合には些か趣を異にする。というのも、ソームの典型ともいうべき大臣官房の各課長というのは、出世コースの筆頭中の筆頭である。のみならずお役人が猛威を振るう「不作為」について、ソームほど格好のセクションはないといってもよい。不作為とは要するに「何もしない」「放っておく」「ハンコを押さない」「聞いていない、といってよそを向く」みたいな態度の総合であって、自分に与えられている権力が小さなものであればあるほど、断固それを行使したくなるという人間性の一般傾向がこれに輪をかける。要するに自分の一存で、ある仕事の流れが止まってしまうのが無上の喜びになるのだ。これは哲学とかマクロな方向性とは無縁であって、「私の言うことが聞けないのか」と机をたたくメンタリティは、それが人権のためであろうが、ナチスのためであろうが、これは選ぶところがない。お役所や末期的な企業だけに特有のものではない。日本のNPOは上記の分類によれば中小企業(にもなっていない)がほとんどだからその心配はなさそうだが、少し規模が大きくなろうものなら、リーダーがよほどしっかりしていないと、これに蝕まれることになる。ご要心(「官僚主義」参照)。

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ソーシャル・アントレプレナー
social entrepreneur 社会的起業家。アントレプレナーはもともとフランス語。普通の事業家というより、思いつきに富んでいたり、リスクを取って事業を「起こす」人という意味で使われることが多い。(あまり知られていないが、「起業家」という訳語を初めて創ったのは十余年前の野村證券・田淵節也氏である。)これに「社会的」が付くと「社会に新たな仕組みと価値観を創出する市民のリーダー」で「身近な課題を主体的に発見し、コミュニティの資源を使い、社会性と事業性を両立させながら問題に取り組み解決策を導く」(東京財団)という意味になるようだ。とはいえ、和製英語でもなんでもない。1997年6月トニー・ブレア就任後初の政策演説にもこの表現は登場し、市民権を得ているものの如くである。

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ソーシャル・キャピタル
social capital 字義通り翻訳すれば社会資本。世の中がうまくいったり、いかなかったりする理由を説明するために、あるいは異なった社会相互間の何らかの成果比較を行うに際して、無形の文化的背景のようなものを漠然とひとくくりにして説明要素としようとする概念。たとえば(アフリカに比べた)アジアの経済発展の要素として識字率の高さ、儒教文化による勤勉さなどを主要要因と捉えようとすれば、アジアにおいてはソーシャル・キャピタルの蓄積が高い、ということになる。こうしたcatch allとでもいうべきさまざまな概念(たとえば「市民社会」、「持続可能な開発」など)と同じように多義的で、用いる人によって内容が大きく異なったりすることも稀ではない。

たとえばある定義によれば、ソーシャル・キャピタルとは「人々がつくる社会的ネットワーク、そしてそのネットワークで生まれ共有された規範、価値、理解と信頼を含むものであり、そのネットワークに属する人々の間の協力を推進し、共通の目的と相互の利益を実現するために貢献するもの」(宮川・大守)ということになり、一読してわかるようにある枠組みとその内容、さらにはそのメカニズムが機能した結果発生したものまでをひとくくりにしている。ことほどさように融通無碍な、あるいは適用範囲の広い分析枠組みに対しては、原因と結果が混同されている、ある社会事象を説明するに際して、きわめて恣意的に指標が選択されたり、計量にあたって相互比較の困難な局面が容易に予測される、といった問題点の指摘がある(Baron, Field and Schuller)。
また、ソーシャル・キャピタルは、現実には構成員のなにがしかの価値観の共有を前提にする場合が多いことから、自由と平等が相反する概念だというのと同じような意味で、これは多元的価値観と二者択一の関係に立つことがあるという見解がある(Pekkanen)。これによれば、日本の非営利組織は前者を重視するあまり、プロフェッショナリズムに欠けた小型のものが多くなったという。

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そもそも論
沿革・起源から説き起こす議論。ややもすると神武天皇に堕する場合もあるが、一度原点に立ち返るという意味からは意義なしとしない。たとえば民間非営利組織についてその存在意義、あるいは出現の歴史を問うてみればおおよそ次のようなことになると思われる。

貧困・恵まれない人々、さらには老・病・死といった問題への対応。それを互助の精神の中で何とかしよう、というのが洋の東西を問わず、民間非営利活動発生の原点であった。これは同時にそうした境遇の原因としての無知を教育によって解決しようという動きに連なるのは自然である。その反面、人間精神の発露としての芸術・文化といった側面でもこうした活動は展開される。

したがって、初期段階における宗教との結びつきはむしろ当然であると共に、貴族とか、豪商といった少数の篤志家もこうした活動の担い手になる。村落共同体、あるいはコミュニティの中にこれらの機能が存在するのもごく自然なことであると言ってよい。この原初形態が今日まで継続しているのは良く知られている。

さらに時代が進んで、市場制経済、民主主義(国家)が成立すると同時に、メディアが発達すると、活動領域やその形態にさまざまな変化が見られるようになる。

例えば貧困の問題は、市場制経済の中では富の配分の問題という側面がより強く意識されるようになる。また、コミュニティの衰退と期を一にして地域固有の問題処理がアジェンダにあがるようになる。同時にさまざまなメンバー制組織が出現する。

核・環境・人権といった新たな問題領域が国際的に展開されると同時に、問題解決それ自体と同様にアドボカシーが活動形態としての重要性を増してくる。

こうしたそもそも論は、時として排除の論理がいかに意味のない議論かを検証するのに役立つ。と同時に螺旋状の進歩を検証するものともなる。

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