NPO小辞典


会員制組織
会員によって構成され、会員から徴集する会費によって成立する組織。メンバーシップ組織あるいはクラブ組織ともいわれる。NPOの一つの典型的な形態。ある組織が非営利かどうかを問うのならば、その組織が会員制かどうかは大した問題にならないが、現在のわが国法制では、その組織が公益を目的とするかどうかを問うから、問題になる。つまり公益法人は「不特定多数の者の利益を積極的に追求する」組織であれ、と言っているわけだから、会員制であることと不協和音が発生することになる。

公益目的を達成する(たとえばアフリカの飢餓解消)ためにメンバーが集まるのなら問題はない。しかし多くの会員組織は、同業者、特定職能、地縁的集団、あるいは比較的狭い関心領域などを中心に作られるから、なぜその組織が公益法人なのかについて、とってつけたような理屈を考えねばならない場合が少なくない。実態は同業者間の親睦、情報交換、場合によっては利益集団でさえあるものが、おしるし程度に奨学金を出したり、社会福祉に寄付をしたりすることによって大義名分を作ったりするのがこれである。公益法人制度の問題点の一つである。

それ以外にも、NPO公共財の提供をする組織である、と規定すると同様の問題点が発生する。つまり限定されたメンバーに提供されるサービスを公共財と呼びうるのか、その場合の条件は何か、という問題である。

 また、会員制組織には解散時に残余財産の構成員による配分を認めるものが多い。そのこと自体は当然なのだが、これは、こうした組織に対する寄付税制上の優遇措置を認めてはいけない、という議論と裏腹であるのは見やすいであろう。税金を世間より少ししか、あるいはまったく払わないで貯め込んだ資産を分配するというのは筋が通らないからである。

 こうした組織は、上記のような定性的な問題以外に、最近になって別の問題を抱えるに至った。それは、古典的な意味での「会員」、つまり志を同じくする顔見知りのメンバーの集まり、といったクラブ的色彩が希薄になり、「寄付者」「支持者(サポーター)」という性格がより濃厚になってくることである。ダイレクトメールあるいはメディア広告などによる大規模広報と相まって、メンバー相互間の結びつきは極度に減少し、その新陳代謝は激しくなる。代わって、一握りのプロたちがアドボカシー団体としての機能を一手に引き受けて遂行する傾向が強くなってきている。(Putnam)

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外郭団体
いろいろなお役所に関係の深い仕事を、そのお役所の指導の下に、多くの場合は資金的にもお役所に依存して行っている団体。あるいは「官庁や政党などの組織の外部にあって、これと連携を保ちその活動や事業を助ける団体」(広辞苑)。公益法人である場合が多い。行政機能を補完していると認識されることが多く、そのために設立認可が受けやすいともいわれる。このうち事実上の行政機能補完にとどまらず、法令などによってある仕事をするのを「指定」されたり、「推薦」されたりしているものは「指定法人等」と呼ばれる。700余り存在し、マカロニの格付け、ダンス教師の品位の保持など多彩な仕事を行っている。

幹部職員のほとんど、あるいは多くが官僚OBの天下り(tired and retiredと皮肉られることがある)であることがしばしばある。「蜜の味」だと批判されたりするのは、社会的に必要性も必然性もないような仕事を漫然と、かつ非能率に行っていることが多いからである。データがわかりやすいかたちで公表されていないのではっきりしないが、外郭団体の数は1万数千、経済規模も補助金、委託費などの名目で直接税金を財源とするものだけで2兆円を超える。市民のイニシアティブで、生き生きと活動する民間非営利団体と、この外郭団体が同一視されているのがわが国の不幸である。

もっともお役所の「息のかかった」NPOとか、お役所の支配下にあるNGOというのはなにも日本の専売特許ではなく、多くの国、特に発展途上国にはよく見られる現象である。設立される動機はさまざまだが、告発型NGOに対する対抗手段であったり、より多くの、あるいはより自由度の高い資金源を求めるためのものであったり、政府高官の引退後の地位を保証するためであったりするものが多い。しばしば冷やかしの意味を含めてGONGO(Governmental NGO)とか、QUANGO(Quasi-governmental NGO)と呼ばれる。

外郭団体のすべてが社会的に意味のない存在で、そうでないもののみに意味があるのか、というと決してそうはいいきれないところが難しい。社会的に見て意義ある存在かどうかの判断は、
  1. 提供するサービスが社会において求められているものであり、
  2. そのサービスが最終受益者に対して有効に提供され、
  3. 供給する主体が自律的に判断し、行動しているか、
という3つのチェックにあると思われる。 特に最後の点は組織のガバナンスと称される。

ちなみに外郭団体でいちばん数が多いのは、地方自治体によって作られた財団で、特に昭和50年代以降急増している。地方自治体からの委託費・補助金などに対する依存度が高い。(「特殊法人」を見よ)

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確信犯
もともとは刑法で道徳・宗教・政治的な確信に基づいて行なわれる犯罪のこと。一般に軽く使う時には、思い込みによって結果お構いなしになにかをやってのける、というくらいの意味。NPOの世界にはごく普通に見られるタイプである。「信じこんでやってるんだからしょうがねえなあ」で済む場合が多いが、そうでないこともある。

たとえば環境NGOの中には有機農法、いわゆる無農薬農法による環境保護を熱心に推進するものが少なくない。日本の都市周辺で野菜を作ったり、肥沃な東南アジアあたりでは大いに結構な話だが、これを世界規模に拡大して食糧生産から化学肥料を追放する、ということになるとかえって環境破壊の確信犯になる。というのも、世界人口増加の趨勢が避けられないものであるとすれば、従来のままの生産性を前提とした農法によってその人口を養おうとすれば、耕地面積を増大させるほかはない。21世紀中に世界人口が2倍になるという予測がある。食糧消費が2倍(動物性蛋白に対する需要が増加することを考慮すれば多分それ以上)になることを意味する。現在世界の耕地面積は約19億エーカー。これを2倍にしようとしても第一にそんな土地はない。仮にあってもそのための森林伐採、生態系破壊などなど、環境保護論者にとって悪夢のシナリオになる。

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ガバナンス
行動についての判断と管理を自律的に行うこと、行っている度合い。governance。また、より広い意味で、経営判断にあたって考慮に入れる要素とその重要度のこと。前者の場合には自治能力・自主管理能力(self governance)という意味合いが強く、例えばあるNPOが運営のための資源をほとんど他の組織に依存し、その結果事業計画の策定から実施に至るすべてをその組織に言われた通り行うとすれば、そのNPOにガバナンスはない。たとえ資源提供を受けていても、自主的・自律的に事業を遂行していればガバナンスはある、ということになる。後者はたとえば、日本企業のコーポレート・ガバナンスにあたっては、株主に対する配慮が比較的少ない、というように使う。

 もともと「自分のことは自分で決める」という意味合いもあって、日本語になりにくいコトバである(たとえば「統治」などと訳される場合もある)だけに、「わがまま勝手」とどこが違うの?とか、「やっぱり誰かさんのご意向を伺うほうが現実的というものでしょう」といった意見に影響されがちである。特に理論的背景の乏しいNPO界にあっては、個別事例について、御用学者のご意見などがガバナンス否定に向かったりすると事態が危機に瀕することもまれではない。だが、そもそも他人から与えられるものではないだけに、みずからの手で守り確立する以外に方法はない。

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官僚主義
マックス・ウェーバーは専門職としての官僚を評価した。また明治維新以後、特に第二次大戦以降のわが国の官僚の果たした役割についても(いくつかの異論はあるものの)一定の評価がなされていると言ってよい。(「ぜひ言っておきたいのは、有能で忠誠心に富む官僚機構は、米国にはない日本国民の財産と見るべきだということです」[オキモト])しかし同時に官僚の基本的な属性について批判や不満が多いのも事実で、特に官僚的、官僚主義といった表現はそうした文脈で用いられることが多い。

官僚主義とは、ウェーバーが官僚の専門性としてあげた規則による秩序、ヒエラルヒー、文書主義などの美点のいわば裏返しであって、形式主義、前例尊重主義、縄張り意識、重箱の隅をつつくような訓詁主義、融通のなさ、文書主義といった態度一般を指す。(たとえば「権威づくの、杓子定規の、上意下達の、ことなかれ主義の、要領のいい、人間味のない考え方」[半藤]あるいは「先例踏襲、繁文縟礼、瑣末主義、事大主義、責任回避、尊大横柄」[本田])ということは別に官僚に限ったことはないわけで「あいつは官僚的だ、やりかたは官僚主義そのものだ。」という悪口はどんな会社でささやかれても不思議はない。特に「官僚機構は昔から自分の過ちに学ぶことがないと決まったものだ」(フリードマン)という側面は、上記のようないくつかの特徴とともに、困ったことにNPOの世界でも時として見られたりする。それが官庁」外郭団体だというのならば、これは似たもの同志だから仕方ないとしても、大型の」NPOや」人格なき社団で見かけることも稀ではない。多くの場合、大真面目で、時として使命感に燃えてこれに陥るのを特徴とする。

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機関助成
助成財団などが助成金を交付する場合、あらかじめ定められた方針にしたがって行うのを常とするが、そのうち、ある組織の運営一般について、特に使途を限定しないで交付されるものを機関助成あるいはジェネラル・グラント(general grant)と呼ぶ。これに対して、個々のプロジェクトを対象としてその実行を支援する、というのがプロジェクト助成で、こちらの手法をとる場合が圧倒的に多い。これは、助成団体の側に、事業評価がしやすい、とか、使途目的がより明確であって助成団体の掲げる活動目的との整合性が一目瞭然である、といった理由があるほか、助成手法とも関連する。つまり、多くの財団は一定額の助成金を「渡しきり」(lump sum)にするやり方をとらず、実際にかかった費用を支給する精算助成といわれる方法をとるものが多い。したがって、機関助成よりはプロジェクト助成のほうになじみやすい。

ちなみに公的助成機関では、会計検査の関係もあって機関助成には消極的なほか、実際にかかった経費を後で支給するという精算助成を行なうケース(たとえばODAによるNGO支援)があり、これは資金不足に悩むことの多いNGONPOからは評判がよくない。使う方から見れば、渡しきりの機関助成が一番使い勝手がよいのは当然で、より効率的な事業運営のためには、助成する側もそのニーズに応えることが強く期待されている。同時に機関助成にあたっては、使い手の側のアカウンタビリティが求められる度合いはより強くなる。

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企業寄付
NPOが活動原資を他に求めようとすれば、公的資金、個人寄付と並んで企業寄付が大きな役割を持つ。特に税務統計に現れた民間寄付はそのほとんどが企業(法人)によるものであってみれば、なおさらその意味は大きい。日本の税制は企業寄付金についてかなり寛大である。国や地方自治体に対する寄付、特に大蔵大臣の指定する一時的募金活動の2つについては全額損金算入できるほか、一般の寄付については資本金の0.25%と所得金額の2.5%を加えた額の半分までは損金として認められる。これとは別に特定公益増進法人に対する寄付も一般寄付と同額まで認められている。ということは、一般寄付と特増寄付だけで、上場企業の場合資本金が20億円として500万円、所得50億円として1億2,500万円。あわせて1億3,000万円が寄付金控除限度額ということになる。

ただし、日本の法人企業で寄付金を支出しているものは1割に満たず、寄付総額は5,600億円(平成3年)、平均して所得の1%前後である。

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企業の社会貢献
よき企業市民」を見よ。

NPO

企業の社会的責任
 もともとは企業行動の「負の外部性」に対してその責任を問う考え方。典型的には企業活動に伴う有害物質の排出などに対して規制や罰則などを適用するケースに見られる。
 1990年代に入り、企業活動の反社会性がより広い角度からとらえられるようになった。たとえば先進国企業が途上国に直接投資によって製造拠点を設けるような場合、そこでの児童労働や女性差別といった人権の視点からの問題が告発型NGOあるいは国際NGOなどによって指弾されるケースがこれである。最近CSR(Corporate Social Responsibility)として喧伝されているものも、この一変種であり、四半世紀前のよき企業市民とほぼ同根の考え方で、おまじないのリフレーズと考えてもよい。後者がよき市民として認められ、支持されたい、という色彩が濃いのに比して、こちらの方は上述の途上国における企業の反社会的行為(幼児労働、劣悪な労働条件と低賃金など)の糾弾、さらには製品不買運動などに対する反応として始まったという経緯もあって、無罪の証明とか、積極的に価値を先取りしていこうという姿勢が強いかもしれない。企業市民については、NPOによるレーティングとか、評価の結果ベスト何社の発表といった穏やかな落ち着き場所が多かった。それに比してCSRではSRIなどのように(特に米国では)企業経営者の業績評価に連なるような大きな余波があるという違いもある。とはいえ、多くの場合しょせんは倫理綱領と同じように自己申告・自己規制の枠を大きく超えるものではない、という見方もある。さらに告発するNPOの側のアカウンタビリティはどうなっているのか、利己行為のおそれはないか、などの問題も指摘される。(Kapstein)
 最近ではこれにとどまらず、企業行動の3つの成果(triple bottom lineすなわち財務・社会・環境)を問う基準あるいは倫理綱領が、国際機関を含むさまざまな組織によって提起されるに至っている。特徴的なのはこうした動きが多くの場合NGOによって問題提起される(GRI:Global Reporting Initiativeはその代表例である)ことで、特に予防的な基準監視(watch dog)にはほとんどNGOが関与しているといってよい。ことここに及ぶと、これまでのようなおまじないのリフレーズを超えて、一種の世直し、あるいは確信犯の趣きを帯びるに至るものも出現してくる。
 ただこれら綱領などに対する違反行為への告発・糾弾が一筋縄でいかない話なのも事実で、たとえば先に触れた児童労働禁止国際世論の結果、国際企業はいくつかの国で18才未満の労働者を雇用しないことになった。しかし現実には、義務教育(それでさえ就学率が100%ではない)を了えた児童とその家庭が収入を求めている事態は変わらない。すると、彼(女)らはより労働条件の悪い職場か街頭の仕事にしか就けないことになる。あるいはこうした企業とNGOの関係の中から、両者の依存関係が発生する、といった事態を指摘する(Kapstein)声もある。
 また、企業の長期的広報戦略、あるいはおまじないのレベルを超えて、企業あるいは資本主義の本質にも関わる要求をぶつける、あるいは企業のトップが自らにそうした義務を課する、ということになってくると、それは本来の企業行動を阻害するものであり、有害な行動だという主張(Henderson)あるいは経営者による株主利益の窃盗だ(Sternberg)という意見さえみられるようになる。企業の長期的利益との因果関係が別途証明される必要がある、という議論である。こうした「社会的責任」を企業が引き受ける、という内容と程度が、伝統的な企業経営の「常識」の枠を超える場合(あるいは長期的利益との関係が明白ではない場合といってもよい)には、おそらく明示の形で株主総会に諮り、その承認を受けるのが望ましいと思われる。

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寄付
企業寄付」および「個人寄付」を見よ。

NPO

寄付行為
定款」を見よ。

NPO

休眠法人
「長期間にわたって事業活動を停止し、理事の所在も必ずしも明らかでなく、単に登記簿上の存在に過ぎない法人」。昭和42年(1967)の行政監察の結果、こうした公益法人の存在が多く発見された。しかも、公益法人に対する税制上の優遇措置に着目して、こうした休眠法人あるいは幽霊法人の売買が行なわれることもあって、注目を集めると共に、その整理解消が急がれることとなった。それから30年経つ間に整理に対する努力も払われて、それなりの実績もあがったが、依然として全体の公益法人のうち6〜7%(2.6%程度だという資料もある)が休眠状態にあるといわれる。

この問題には2つの側面がある。1つは休眠状態になる公益法人が発生すること。さらにはそれにどう対処するか、ということ。第2にはそうした法人の売買にどう対処するか、という点である。

まず第1の休眠状態になる法人の発生は制度上必然的である。つまり、民法34条が「公益」性の有無を法人設立の要件にしている以上、ある時代に高度に公益性が認められたものが、時代の推移と共に必ずしもそうでなくなるのは当然のことだからだ。たとえば50年前には外地からの引揚者は大きな社会問題であり、これに対処する公益法人は設立が認められて何の不思議もなかった。それが今日何の意義があるかは自明だろう。そうした団体が取り得る途は、新たな「公益」問題を発見してそこに新たな存在意義と活路を見いだすか、解散・休眠・消滅の道をたどるかのどちらかしかない。

前者については寄付行為(財団)あるいは定款(社団)の変更を必要としよう。これは主務官庁の認可を必要とするから、その判断いかんということになる。公益法人設立の認可制度の是非は別項に譲るとして、民法上に定款変更に関する規定のある社団法人の場合はともかく、財団法人寄付行為の変更について、特にその目的の変更については否定的な意見が多い。つまり設立時に一定の目的が明記されているのだから、その目的を達成し、あるいは達成が不可能になった時には財団法人は静かに消えていけばよい、というわけである。特に遺贈によって設立されたような時には、故人の遺志を後でどうこうするのは適当ではない、とされる。まことにもっともな議論であり、存在意義を喪った後も漫然と存在している役所や特殊法人が存在するのに比べると潔いことこの上ない。

ただ、1つだけ問題があるのは、こうして消滅する時に残った財産がどうなるかという点で、類似の目的を持った公益法人寄付するか(これにもお役所の認可を要する)、あるいはクニに帰属してしまうことである。お役所仕事にまかせておけない、と私財を投じた人の遺産が国庫に吸収されてしまうのは皮肉な現象かもしれない。

消えていく方は商法上の組織、つまり株式会社などと基本的には同じで、法律の規定にも3年間活動していなければ設立許可を取り消すことになっている。お役所が何らかの理由でそれをしなかった、というのも株式会社のケースと同じで、別にことさらに問題にすることもないだろう。
上記の3つの途はいずれも公益法人が自らの意思でそうする、と決意した場合のことである。監督官庁がある公益法人の公益性が失われたからといって、解散命令が出せるかどうかについては、法律の条文上必ずしも明らかではないのみならず実例がない。また、公益性が失われむしろ営利会社として継続した方が適当である、という時にどのような手続きで移行したらよいかについても定説がない。

第2の売買の点だが、これは問題を2つに分けて考えた方がよい。1つは、休眠中の法人を見つけだし、開いてもいない理事会か社員総会を開いたことにして「合法的に」だれかが理事や責任者に就任したことにして生き返らせる、というもの。正確に言うとそうして偽装した状態をお役所に届け出をし、活動を復活すること。その裏に何らかの思惑やオカネの動きがあるのが普通だろうが、それはとりあえずここでは関係ない。これは実体のない架空のプロセスを捏造することによって、見かけの上で合法的な手続きが発生したかのように振る舞っているだけのことである。何も公益法人に限ったことではなく、株式会社についてだって起こり得る。その登記を受け付けるかどうか、受け付けてしまった登記に対抗力があるかどうか、偽りだと判明したときにどんな処置が可能か、というだけの話である。

もう一つは、公益法人の新設がやたら難しかったり、民法がどうやら公益法人の合併とか吸収を予定していないらしい、という事実から派生する事態である。たとえば新たに財団を作るよりは、既存の財団に出捐(オカネを出すこと)してその財団を「乗っ取り」、そこで活動を開始するほうが簡単だからそうする、という話である。ふたたびこれも役所の認可にかかるから、その判断いかんなのだが、既存の団体の理事会がそれを歓迎しているのならば、特に問題はないだろう。ウラでカネが動いた、とか、理事が職務執行に関して背任にあたるようなことをした、というのはもちろん別の話である。

もう一つは、公益法人の新設がやたら難しかったり、民法がどうやら公益法人の合併とか吸収を予定していないらしい、という事実から派生する事態である。例えば新たに財団を作るよりは、既存の財団に出捐(オカネを出すこと)してその財団を「乗っ取り」、そこで活動を開始するほうが簡単だからそうする、という話である。ふたたびこれも役所の認可にかかるから、その判断いかんなのだが、既存の団体の理事会がそれを歓迎しているのならば、特に問題はないだろう。ウラでカネが動いた、とか、理事が職務執行に関して背任に当たるようなことをした、というのはもちろん別の話である。

総じてこの種の話がマスコミなどに登場すると、お定まりの「監督官庁は何をしている」から始まって、規制・管理強化の大合唱になるのを常とする。悪いことをするヤツはけしからん、というのも事実だし、できないように「しかるべく」予防措置を取れ、というのにも一理はある。しかし、おそらくは事後の罰則規定によって予防効果を期待するほうがコスト効果は高い、というのが真実に近いのではないか。

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行政補完型公益法人
外郭団体」を見よ。

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許可主義
準則主義」を見よ。

NPO

曲学阿世
 真理を曲げた不正な学問をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること(広辞苑)。史記儒林伝。いささか旧聞に属するが、昭和25年(1950)に全面講和論を唱えた南原繁・東京大学総長のことを吉田茂首相がこう呼んだ。おもねる相手に事欠かないのはいつの世でも同じだが、最近は手が込んできて、不正な学問どころか学問めいた装いを身にまとうことによってもっともらしさを演出し、実は世論傾向に迎合、あるいは低俗な露悪趣味に媚びようとするものが少なくない。

NPO

清く正しく美しく
 宝塚音楽学校の校訓。小林一三作と伝えられる。読んで字のごとしで解説を要しないが、これがNPO本来のありようである、あるいはあるべきだ、と考えている人が決して少なくない。ついでに「貧しく」とでも付け加えればもっとリアルかもしれない。こちらの方には、清貧ということば(行いが清らかで私欲がなく、そのために貧しく暮らしていること[広辞苑])もあるのだが。さて、こうしたあり方は尊敬すべきものであり、別にそれはそれで構わない。しかしNPOの存在意義がここにある、ということになると、本末転倒の嫌いなしとしない。
というのも、NPOの中に、社会の片隅で良いことをしている小さな集団(再びそれはそれで結構なことである)から脱して、公共財提供に関して大きな社会的機能を果たす専門家集団となるものが発生するのは必然だ。その場面で、この校訓に照らして「それはいかがなものか」という議論が発生したり、だから「あれは本当のNPOではありません」式の原理主義者の標的になったりする事態を考えてみればよい。さらにNPOの非営利性、つまり利益を構成員で分配しない、という基本原理と野合すると、NPO関係者は薄給に甘んじるべきだ、ということにもなりかねない。

資源不足に悩む日本のNPO界にあっては、今のところあまり実益のない議論であるが、プロフェッショナリズムを尊ぶ集団に成長する場面では、どうしても一度クリアしておかねばならない通過儀礼であると思われる。

ところが困ったことにわが国では、渡りなどの名で呼ばれる清くも貧しくもない天下りの風習が存在している。これをNPO一般に拡大する議論はもちろん当を得ないのは明らかだ。しかしそうした風習の温床となる外郭団体の存在、さらには公益法人性悪説の風土を重ね合わせた時に、この通過儀礼を過去のものにしよう、という主張がやや迫力に欠ける展開になるのも事実である。

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挙証責任
 「(法)訴訟上、ある事実の存否が確定されない場合、存否いずれかに仮定して裁判がなされるが、その仮定によって一方の当事者が受ける不利益な負担を言う。民事 訴訟では事項により原告と被告に分配され、刑事訴訟では原則として検察官が負う。」(広辞苑)
 有罪であることが証明されるまでは無罪だ、という推定無罪の原則もこれである。
わが国では必ずしも浸透した考え方ではなく、警察に逮捕された段階で会社をクビになったとか、社会的に糾弾を受ける、というのはさして珍しいことではない。非営利法人の所得が原則課税か、原則非課税か、というあまり生産的ではない議論も、実はここに原因がある。非営利法人としてふさわしくない活動をしている、と(税務署が)証明しない限り無税なのか、ふさわしい活動をしていると申告・証明しない限り課税されるのかは大違いだ、というわけだ。
 これと似て非なるものに、ピンクの鯨、あるいはユダヤ人陰謀説がある。どちらもそんなものが存在しない、ということは証明のしようがない。

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草の根
グラスルーツ(grass roots)の訳語。社会の底辺をなす民衆。庶民。(広辞苑)もともとは20世紀初めに米国で、都市部に対して農業牧畜地区を指した言葉。後に転じて、政治・経済的集団としての農牧民、さらには一般民衆・大衆・庶民の意味で使われるようになった。(Collins)ちなみに日本語でも「葉の影になって見えない草の根もと」(広辞苑)という意味がある。

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憲法89条
公金または公の財産を宗教団体、または公の支配(control of public authority)に屬さない慈善、教育、博愛の事業に対して支出あるいは利用することを禁じる。文字通り読めば国による私学助成は憲法違反ということになるが、通説は「公の支配」をゆるく解釈して、法律によって設立や運営にある程度の国の関与があれば、それで公の支配に属しているとする。これまでに問題になったのはこの私学助成と、神社仏閣に対する祭祀料と文化財保護のための支援で、公益法人の慈善・博愛の事業に対する支出は司法の場で取り上げられことはないが、おそらく同様の解釈で問題なしとする、と予想される。

しかし、仮にこのゆるめられた解釈を取ったとしても、国内法に何らかの定めのある公益法人などはともかく、何の法律の定めも受けないNPOとか、海外のNPOに対する支援はどうがんばって解釈改憲をしようとしても無理がある。ODAの草の根無償も憲法違反の匂いが強いと言わねばならないだろう。

解釈改憲というのは、為政者による恣意的なご都合主義を追認するという色彩が濃いこともあり、国際的なNPO活動の高まりの中では、正面きって憲法改正をすべきではないかと思われる。

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原理主義
宗教において、聖典とされる文書(キリスト教のバイブル、イスラム教ではコーラン)以外に権威を認めず、その一字一句を忠実に信じ、実行しようとする立場を指す(Collins)。俗に使用される場合には、狂信者とか、融通の利かない原則主義者、といった意味にもなる。もちろん後の方の意味だが、NPO界も原理主義者には事欠かない。「ボランティアはすべて無償であるべきだ。」「NPOは企業や政府のカネを受け取るべきではない。」

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権利能力なき社団
権利能力というのは、権利義務の主体になることのできる法律上の性格のこと。法人格ともよばれる。何らかの法律に基づいて設立され、法人として活動しているNPOには公益法人、社会福祉法人、学校法人などなどのほか、平成10年・13年にそれぞれ成立したNPO法中間法人法によって認知されるものがある。(後者については平成13年12月現在実例はまだない)新しい法律ができる以前は、NPOが法人格を取得しようとすれば民法34条公益法人によるほかはなかったが、この設立がきわめて難しいため、多くのNPOは法律的に何らの規定や保護を受けることなく存在せざるを得なかった。そういう団体を一括して任意団体人格なき社団、あるいは権利能力なき社団と称した(権利能力なき財団というのも理論的には存在する)。法律の保護を受けないというのは、具体的にはたとえば登記ができない(不動産登記法36条)し、団体として印鑑証明がとれない(同施行細則41条)。もっとも裁判で訴えたり訴えられたりすることは可能(民事訴訟法46条)だし、面白いことに税法上は法人とみなされる(国税徴集法3条・法人税法3条)から、まったく権利義務から見離されていたわけではない。

これまで法人格を取得する途がないため任意団体の地位に甘んじるほかはなかった外国のNPOはじめ、多くの団体が新法によって権利能力を取得することが可能になったことから、今後も任意団体として存続するしか途がないのは、時限的な性格の強い組織、あるいは一過性のグループのようなものに限られることになると思われる。

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公益
不特定多数の者の利益、という意味であるとされる。ちなみにこれは官庁によるいわゆる有権解釈であって、それ以上のものではない。さらに、これは厳密に言うとかなりいい加減な定義で、「不特定」というのはどこまでか、たとえば、ある親族だけ、ある地域だけ、ある学校の卒業生だけ、ある国だけ、女性だけ、のどのあたりで線が引けるのかあまり明快ではない。多数というのも同じ。その結果どういうことが起こるかというと、人口195人(2006年)の東京都下青ケ島村出身者を対象とした奨学金事業は従来の例によれば公益性が認められるのに対し、会員100万人を号する日本大学校友会の類似事業は共益であって公益ではない、ということになる。いかに「不特定多数」という従前の定義が空疎なものであるかの一例だが、今回の公益法人制度改革はこの定義を踏襲した。

もともとは私益に対する言葉だから、私益とは何かという方から追いかけるのがよいのかもしれない。公の字のムというのは私のことで、ハはそれを否定する意味であるという。つまり私の観念が先にあって、後に公という観念が発生したことになるという(本田濟)のだから、なおさらその感がある。私益とは「私」の利益、つまり自分の、お身内の、お仲間のための利益を意味する。とすれば、そうしたもののためにではない、世のため、人のため、というのに限りなく近いことになる。

しかし、世のため、人のためか。つまり、何が「公益」か、という認定の内容も時代の制約から自由ではない。したがって、ある時代には「公益」として振興することにおおいに意味があったことでも、まったく意味を失ったり、逆に営利企業の分野になってしまったりすることもあり得る。たとえば、自動車教習所が公益法人として認められているのがおかしい、というのがよく例にひかれる。しかし、モータリゼーションが始まりかかったころに、他の交通手段に乏しい町村で採算を度外視して開設された教習所は、立派に公益のために貢献していただろう。おかしいのは、それが漫然と今日まで「公益」法人として認められ続けていることの方である。

民法34条営利の反対、つまり非営利の代わりに公益というコンセプトをおいた。理論的には非営利のほうがわかりやすい。のみならず、営利対公益という区分の実益がもっぱら税制上の優遇措置をめぐって議論されるだけに、本来市民の立場からなされるべき公益の認定にいらざる官の介入を招いた。

「公益」目的のものを、そうでないものから区別する必要があるとすれば、受益者が不特定であるか、あるいは十分に多数であること、均質のサービスを同時に供給することを保証すること、と理解した方がよいように思われる。その方が、公共財を供給する組織としてのNPOを明確に定義し得るからである。

 具体的には、(1)非営利の組織であって、(2)もっぱら構成員の福利向上を目的にするものを除く、それを「公益」と観念すればよい。

 ちなみに、公・私の区別というのは、本来官・民のそれとは異なってしかるべきである。つまり、公であるからといって、必ず官が行わねばならないという必然性はない。ところが、これが安易に混同される結果、公益法人イコール官庁外郭団体といった理解をもたらす風土を作ってしまっている。

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公益信託
個人あるいは企業が公益目的のためにオカネを出して何かをしたい、と考えた時に取り得る1つの方法。そのオカネを受託者(信託銀行であることが多い)に預けて、どんな目的のために、どのように使ってほしいかを契約する。通例受託を受けた機関(または個人)はその目的を果たすのにもっともふさわしいと思われる組織に実行を委託したり、アドバイザーとしての委員会を組織して使い途を決めたりするのが普通である。この制度ができたのは大正11年(1922)だが、第1号が誕生したのは20年ほど前のことである。それ以来設立は500件を超え、資産総額も500億円余。信託法66条による。公益信託には法人格はない。

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公益法人
民法34条の定める法人類型。「公益」に関する法人で「営利」を目的としないもの。財団法人社団法人の2種類がある。平成9年(1997)現在で団体数は2万5,000、総予算規模は20兆円に達する。公益法人は、世界的に見て最近その活動が注目されている第3セクター、つまり政府でもなければ企業でもないいわゆる民間非営利団体の典型的存在のはずなのだが、日本ではお役所の外郭団体、といった呈のものが非常に多く、おそらくは先の団体数のうち6割前後がそうであろうとされる。「であろうとされる」という表現からも明らかなように、この分野の資料・数字は公表されることがきわめて少なく、平成4年(1992)にNPOによる「公益法人アンケート調査委員会」がその活動規模を明らかにするまではほとんど暗黒大陸ともいうべきありさまであった。「であった」というのは早計で、現にその状態はまだ継続している。

というのも平成7年(1995)までは、先の委員会の推計も、そしてその後に発行された政府公刊資料でも、公益法人の総予算規模を年間10兆円余りであるとしていたが、突如平成8年にそれが20兆円余りであるという政府資料が公開された。1年間で活動規模が倍増したわけでも、新設の公益法人がそれほど発生したわけでもない。これまで推計から洩れていた法人が浮上したようである。浮上した法人には年間支出規模が1,000億円を超えるもの、不動産関連業務を行うものなど、新たな発見が多い。徐々に公益法人の実態が明らかになるのは、NPOの透明性の確保という見地からも大変結構なことである。

平成18年(2006)の公益法人制度改革の結果、準則主義によって自由に設立された非営利法人のうち、公益等認定委員会によってその事業あるいは組織が公益性を持つ、と認定を受けたものが公益法人ということになる。 制度が変わって看板が多少模様替えをしたからといって、本質がにわかに変わると信ずる理由もないが、少なくとも実態が改悪にはならないようにしたいものである。

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公益法人課税
税制上の優遇措置」を見よ。

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公益法人指導監督連絡会議
公益法人の設立、監督事務をさまざまなお役所が統一的に行うようにするために、昭和60年(1985)に総理府に設置された会議。メンバーはすべて高官僚である。なお平成8年(1996)9月20日に「公益法人の設立許可及び指導監督基準」が閣議決定(1996.9.20)され、それに基づいて関係閣僚会議幹事会なるものの申合せ(同12.19)によりその運用指針が定められている。

公益法人民間非営利組織の代表的存在として、よりよい社会建設のために生き生きと活動するのが本来のありかたである。しかし、一方では民間の公益活動の低調さとそれに伴う国民の認識の薄さ、他方では税制上の優遇措置を利用して営利活動の隠れ蓑に公益法人を使ったり、乱脈経営、さらには休眠法人の売買、存在意義の疑わしい官庁外郭団体の存在などから、さまざまの不祥事が発生する都度世間の注目を集めるにすぎない存在になり下がっていた、といわれてもしかたない時期が永かった。そうすればお役所の手による監督の強化、運営の改善という声が強くなるのは自然の成り行きで、昭和42年(1967)以来、数次にわたってこの種の動きが見られている。

きっかけがきっかけだけに、どうしても公益法人というのは放っておくと悪いことをしかねない(性悪説)とか、公益法人の意思決定機関というのは自主的な判断能力はない、と考えているとしか理解しようのない内容が多い。公益法人、特に財団法人には意思決定機関である理事会に対して、有力な牽制機関がないから役所の監督が必要だ、という意見もあるし、また、中には運営に問題のある団体も現に存在しているわけだから痛しかゆしのようなところはあるのだろうが、一網打尽に細部にわたって指導監督しようという姿勢は感心しない。

一例をあげれば、昭和61年(1986)の「公益法人の運営に関する指導監督基準」は、公益法人の基本財産の管理運用について安全確実な方法で行え、と言い、その他の資産は安全有利な方法をとってもよい、とする。そして定期預金や土地(!)は安全確実でよいが、株式や株式投資信託はダメ。運用財産については社債くらいはよいだろう、とする。基本に流れている思想は元本が減る可能性があるもの、リスクのあるものはいけない、安全確実にやりなさい、ということである。その限りではごもっともな意見のように見えるし、この「基準」を作成した人々の意図も、多分そのあたりにあるのではないか、と思われる。しかし、その良き意図にも関わらず、この内容は二重、三重の意味で間違っている。

基本財産の維持・拡大がいちばん大きな意味を持つ財団法人に例をとろう。まず第1に、財団法人にとっていちばんこわいのは、インフレによる基金の実質的な目減りである。20年、50年、さらにはもっと長いレンジでとらえた時に、基金元本を名目的に維持はしただけでは、実際には消滅せざるを得ないケースは決して稀ではない。この見地からは、「基準」お勧めの銀行の定期預金よりは、株式投資の方がはるかに優れているのは数字が証明している。

そして、さらに大事なことなのだが、こうした危惧を含めて財政状況、資産運用にもっとも関心があり、意を用いているのは(当たり前の話だが)当の財団法人自身である。ある程度以上の基金を持っていながら、アセット・ミックスだ、ポートフォリオだ、という話に無関心な事務局が今どきあるとは考えにくい。それに対して、小学生をさとすようなやり方は、いかがなものか。

3番目に、とはいいながら、株式価格は上下する。すべての資産をストレートにある株の購入に投入してしまったら、日本の配当性向では事業運営もおぼつかなくなる団体も出てくるだろう。それを承知の上でおやりになる財団がそんなに多いとも思われないが、仮にそれが心配ならば、節度(prudence)の尺度くらいは作ってもよいかもしれない。あるいは株式保持を通じて企業支配を意図したり、投資によって巨利を得てため込んでしまうのがけしからん、というのなら、保有資産の何パーセントか(たとえば長期金利相当分)を公益目的に支出すべし、と定めればよいだけの話である。結果について義務を課すればすむ話を、いちいちプロセスに介入しようというのは市場原理に反しようというものだ。こうした基準を策定する場合でも、指導監督するお役人が何人か集まって作るのではなく、市場に通暁している人々、財団界からも討議に参加し、そして外国事情も調べるくらいのことはすべきだろう。もちろん何年かに1回は見直しもすべきなのは当然である。そうすれば木で鼻をくくったような話ではなく、対象株式は二部上場でもよいのか、デリバティブはどうか、債券の格付けはAAでもよいのか、といった話になるはずである。節度ある財団はもうとっくにそんな内規は持っている。

この一例からも明らかなように、自主性を持って自律的に業務運営を行う公益法人(これが原則であるべきことは当然であろう)以外に、何らかの理由で常時管理監督の対象としておかなければならないものがあるのだとすれば、そちらの方を例外的に指定するというのがあるべき姿ではないかと思われる。

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公益法人制度改革
中間法人法」「民法34条」を見よ

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公益法人の資産運用
公益法人指導監督連絡会議」を見よ

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公共財
民間非営利組織の提供するサービスは基本的に公共財の性格を持つといわれる。これを一般的に「公共のためになる」財とか、「世のため人のための」サービスという意味で使うのであれば、ほとんど「公益」のため、というのと大差がない。そうではなくて、これに若干違った意味を持たせる場合がある。

公共財というのは経済学の用語で、社会において必要とされながらも、市場において価格メカニズムに任せておいたのではうまくいかないようなサービス一般を説明するために考え出された。それではどんなものがうまくいかないかというと、多くの人が同時に利用することが可能で、対価を払わないで利用する(タダ乗り)のを防ぐことができないか、防ごうとするとかえって途方もない経費がかかってしまうようなサービス。(灯台の例がよく用いられる。もっともこれにはコースの反論がある。)サミュエルソンによれば、純粋の公共財とは「すべての人々にとって同時に等量消費される」。一方、純粋でない公共財は、供給量の制限からすべての人に利用可能であっても等量消費の保証がない、という(いわゆるcongestion)。

公共財にはほかにもいろいろな特性を持ち、それに応じて各種の定義がある。どこまでが定義で、どこからは定義から派生する性格に過ぎないのかという議論もあるが、ここではなぜNPOの活動とかかわりがあるのかという見地から、あまり煩瑣にわたらない範囲で紹介してみる。

公共財は、市場取引を経由せずに個人に経済的利益や不利益を与える、いわゆる「外部性(externality)」を持つとされる。他方、すべての人々にとって同時に「供給される」ような財が公共財で、同時に消費されたり、タダ乗りを防止できないのはその結果に過ぎない。外部性も同じ、と考える人もいる。また、たくさん作ればそれだけコストが下がる、という規模の経済が働く場合、新しく1つ何かを作る限界費用は、全体の平均費用よりも常に低い。新しい供給を平均費用で提供するから利潤が生まれるわけで、これを限界費用で提供していたのでは私企業になじまない。そういうやり方は、政府によって公共財として供給するしかない、という議論もある。

要は、こういう性質の財(サービス)は、それが必要だという社会のコンセンサスがあれば(これについては後に触れる)、政府が税金という形で吸い上げた原資によって公共サービスとして提供するほかはないことになる。

灯台はともかくとして、公共財の例としてよくあげられるものに外交、警察、消防、教育、医療、運輸などがある。先の定義との関係で若干の解説を加えると、たとえば警察。これがなかったとしたら、治安の良い環境に住みたい、と思う人は用心棒でも雇って、常時身辺警護にあたってもらうほかはあるまい。お隣りも、またそのお隣りもこれをやっているとしよう。そのうちに、夜の屋敷の警備は共同で雇って一緒にみてもらった方が経済的だ、と思うようになっても不思議はない。ところでその地域社会の中に、貧乏で、あるいはヘソ曲がりで、共同でガードマンを雇う話にのらない人がいた。しかし、その人も治安向上というメリットは受けてしまう。夜中にウロウロしている泥棒みたいな人がいたら、まちがいなく不審訊問にひっかかるだろうし、会員ではない家に泥棒に入るつもりだ、と弁解して勘弁してもらったにしても、泥棒にしてみればわずらわしいことこの上ない。あそこはやめて他所で仕事をしよう、となることは確実だろう。

消防だって話は似たようなもので、会員以外(あるいは税金滞納者)の家の火事は消さないで済むか、というとそうはいかない。延焼防止のために消火もすれば警戒もする、ということになれば、やはりタダ乗りは可能だし、発生もする。

さて、タダ乗りの方がよい、という人の方が多くなったら、これは個々人が用心棒を雇う段階に逆戻りで、社会全体としての治安悪化は目に見えている。だから、頭を叩き割るより頭数を数えよう、という民主主義発生の理屈と同じで、経験に学びつつ、全体としての利益がより向上するようなシステムをとろうということになるはずだ、なった方がよい、それが近代社会だ、ということになる。

ここまでの議論にもすでにいくつかの陥し穴が隠れている。まず、用心棒や火消しを「雇う」という話は市場を前提にしている。だから、こういう種類のサービスは「市場を前提とした」供給に頼っていては、あるいは頼っているから、うまくいかなくなる、ということではない。「雇う」のではなくて代わりにボランティアの自警団か火の用心であっても話は変わらない。そうではなくて、「同時に等量」提供されてしまうサービスの質あるいは形態がこうした問題を発生させているのは明らかだ。ガードマンそのもの、ホームセキュリティそのものは立派に市場に乗るし、現に商品として定着している。それは個別対応のサービス提供という形態によっているからで、供給形態が同時等量ではないからである。隣りがガードマンを雇ったからこちらは雇わなくて済むようになれば、まちがいなくそのビジネスはあがったりになるだろう。
そうすると、ことは「こうした」サービスを市場による供給に頼ることができるか、その限界は何かを問う、というのが1つ。そして仮に市場によるのが不適当ならば、それは当然に公的機関による(税金による)供給を意味するのかどうか、というのが1つになるだろう。

ここで先ほどの社会のコンセンサスの話になる。つまり、ある社会が、どのような水準の、どのようなサービスを、成員全員で共有することを望ましいと考えているか、ということである。医療といい、社会福祉という。義務教育であれ、高等教育であれ、それらが一部の裕福な人々のみが供給を受け、あるいはごく限られたグループだけが利用しているか限りは、当然市場原理によって供給は可能だし、価格メカニズムも十分に機能する。

そうではなくて、成員全体に最低限この水準のサービスを供給しよう、されるべきだという合意が成立する。そして成員の側にもそれを期待する、あるいは権利として要求するようになると、話はがらりと変わってくる。いわば同時に等量が供給される「べき」サービスが発生するわけで、厳密にコスト計算に基づいて価格を設定したとすれば、とてもそうしたサービスを購入できなかったであろう人々もそれを享受することになる。

ある社会がその構成員全員に対して、均質なサービスをわけへだてなく提供しようと決意することによって公共財が発生する。これは、個別の市場取引によっていたならば、そのサービスを購入できなかったであろう人にも提供する、ということを意味する。これは市場メカニズムによる供給ではない。市場に買い手として参加するのは購入の意欲と能力のある人々だけだからである。

この延長線上で、ある「社会」の範囲を拡げることによって、開発途上国援助とか、平和維持軍といった国際公共財の概念が発生してくる。

逆にある「社会」の範囲をより狭くすることによって、地方公共財とか、クラブのメンバーシップ公共財のようなものが発生する余地もあるだろう。この場合には、先のケースとは違って、それ以外の社会で供給されているサービスよりは質が高かったり、あるいはまったく異なった種類のものであることも多いだろう。この場合、ただ単にコストをプール計算してメンバーに均等割にするというだけならば、何も公共財などという観念をことさらに発明する必要はないわけだから、購入できない人にも供給する(あるいはタダ乗りは最初から覚悟の上)、という要素を伴うか、あるいは(市場による)商業的な供給が期待しにくいから、コストの一部または全部をあるグループが負担するという要素があるか、さもなければ個別徴集による取引コストが著しく高くついてしまうような母集団に対する供給、ということになるだろう。それらはすべて、市場による供給が不可能であるか、非効率だということを意味することになる。

ここで注意を要するのは、公共財には、財(サービス)そのものの性質が同時等量の供給を余儀なくさせ、したがって対価徴集の困難さに典型的に現れるように、市場原理の下で供給するのが困難なものと、そうではなくて、構成員全員に均質なサービスを提供しようとする結果、特殊な取り扱いを必要とするにいたるものの2種類があることである。

このうち特に後者がNPOによる供給の中心的なものであると考えられる。というのも、NPOとは何らかの「志」を共にする人々の自発的な集まりだからだ。もっと具体的に言うと、その「志」とはある財を、ある範囲の人々全員に均等に提供しようとする意思の表明、ということになる。ここである「財」の方は極端に言うと何でもよい。大事なのは「ある範囲の人々全員に均等に」提供しようということである。財の提供を受ける「ある範囲の人々」は提供しようとする人々の範囲と一致してもしなくてもよいが、多くの場合は一致しない、つまり前者の方が後者よりも範囲が広いと思われる。特に「ある範囲」が構成員によって自発的に決定されることは重要である。これは必ずしも民主主義原理や多数決理論と両立するとは限らない。したがって、一方ではある社会が大勢あるいは平均値と「異なってある」ことに対してどれほど寛容であるか、という状況に応じて、ある財が公共財になったりならなかったりする。それと同時に公共財供給者であるNPOの側にも、不断の社会へのフィードバックとアカウンタビリティが必要とされることになる。"

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コーポラティズム
1930年代に一世を風靡した思想だったが、ナチスや共産主義と一体視されて(これは必ずしも正しい見方ではない)一時ほどの人気がなくなっている。要は社会構造の中にある種の組織の導入が必要であるとするのだが、その組織とは、たとえばNPOが複数性、自発的加入、競争性、非ヒエラルヒー的秩序、自己決定性といった属性を持つのに比して、単一性、義務的加入、非競争性、ヒエラルヒー的秩序、職能別分化といった属性を持つとされる。その組織は国家によって許可・承認され、一定の国家による統制に服することを条件に、一定の範囲内で独占的代表権を付与される。(シュミッター)

NPOについてシビル・ソサエティ・モデルが一般的であるが、現在の中国、あるいは民法34条による公益法人制度のように、クニの影響力からの独立性がいろいろな意味で現実性を欠く場合に取り得る1つの論理的な選択肢ではある。

1998年に発足した世界ダム委員会(the World Commission on Dams: WCD)や1999年ダボスの世界経済フォーラム(World Economic Forum)で提言されたグローバル・コンパクトは、NGO・企業、さらには労働組合・国際機関などを構成員として含むことから、三者構成による新たなる世界的コーポラティズムへの危険な動きとしてとらえる見方もある。(Ottaway)国際社会は法的強制装置を持たないことから、上記定義をそのまま適用することには若干の無理がある。しかし、これはむしろコーポラティズムそのものに対する批判というよりは、NGOが市民の声を「代弁する」というフィクションの虚偽性を指摘するコメントとして読むべきであろう。 ちなみに、上記シュミッターの古典的な定義は理念型であるとして、現実にはさまざまなコーポラティズム的要素がシビル・ソサエティ・モデルに混入している、あるいはその逆であるという議論もある(Wiarda)。

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顧客満足
もともとはマーケティング用語。顧客にとっての価値を満足させることを中心課題とする。 consumer satisfactionの日本語訳。

NPOのおちいりがちな過ちの1つに、良いことをしているのだから、世のため人のためになることをしているのだから、それで十分だ、自己完結をしている、という行動をとることがあげられる。これは陳腐化し、不要になってさえいるかもしれないサービスを漫然と提供し続けるおそれに繋がるし、その結果としてただでさえ十分とは言えない資源の浪費をもたらすことになる。これをチェックするためにはNPOの側で、常に顧客満足度、さらには顧客の存在それ自体についての検討を続けることが有効な手段になる。

ただし、顧客の満足を得るために柔軟に対応しようとしても、財団法人の場合には、その設立目的(寄付行為といわれる)を変更することには否定的な見解が多い。もっとも実務上は、寄付行為をかなり広義で「化ける」ことが可能な表現にしておけばよいから新設の財団の場合にはほとんど問題にならないだろう。既存の財団で限定的、詳細な寄付行為を持つものは顧客満足を満たさないままに活動を続けるか、消滅するほかはないことになる。1つの問題であろう。(「休眠法人」参照。)

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国際ボランティア貯金
平成3年(1991)郵政省(現総務省郵政事業庁)が開始した国際活動をする日本のNPO支援制度。郵便貯金加入者から利子の20%を拠出する人を募り、それを支援の原資にする。加入者が平成9年(1997)には2,000万人を超え、助成総額は低金利下でも15億7,000万円、支援事業の数も260以上になった。

官主導型インターミディアリとして、なかなかの実績をあげていることは評価できるが、惜しむらくは支援対象に対する明確な問題意識に欠ける(なぜ日本のNPOだけなのか、開発支援と国際交流のどちらに重点がおかれるのか)と同時に選考基準とその過程、さらには実績評価がほとんど公開されていない。

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告発型NGO
政府、企業の施策あるいは行動の欠点を指摘し、それを広く世論に訴えることによって、場合によっては実力行使も含めて改善、阻止することを目的に活動するNGOアドボカシー活動や市民運動から発展したもの、もともと他の性格を持っていたNGOが変身したもの、政治活動の変形、などいくつかのパターンがある。中には告発糾弾以外に代案を提示する機能を持つものもあるが、通例は社会的不正、あるいは隠蔽されている事実の指摘を主たる活動とする。経済開発を優先目的とすることの多い途上国政府の場合、開発に伴う弱者の犠牲を指摘したり、時には反体制運動にも連なるこうしたNGOを敵視することも稀ではない。またこうしたNGOの活動も、場合によっては過激になったり、「何でも反対」になったりしたこともないとはいえない。しかし、これらNGOが過去に果たした、あるいは現在果たしつつある役割には一定の評価を加えるべきであると思う。

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個人寄付
NPO活動が市民の支持と共感によって成立するとすれば、その活動の資金源として、公的資金、企業からの寄付とならんで、個人寄付は重要な位置を占めるはずである。ところがジョンズ・ホプキンス大学による国際比較研究の報告書によれば、先進7カ国の平均では事業収入47%・公的資金43%・民間寄付10%(うち個人寄付が6%)であるのに、日本ではそれぞれ60%・38%・1%であるという。しかも日本の民間寄付はその90%以上が企業寄付だとされる。これは税務統計の数字による議論であり、これによれば個人寄付の額も366億円(平成3年)ときわめて少ない。

日本の税制では、個人寄付に対する税制上の優遇措置は上限が所得の25%であるほか1万円の足切りがある。つまり1万円を超える寄付しか税務統計にはあがってこない。従って税務統計にあがってくる数字は過小であるとして、消費実体調査からの推計値としてその5倍くらいは個人寄付があるとする意見(山内)もある。

またこれとは別に、資産家が私財を投じて財団を設立し、それによって民間非営利活動を推進しよう、という次元での「個人寄付」については、日本のきわめて高率の累進所得税が実質的にそれを不可能にしている、という指摘もある。さらに税調委員の中には「日本では累進税率が高いから大丈夫だと思うけれど、ビル・ゲイツやテッド・ターナーのような人が現われて何千億円かで財団でも作られたら口惜しくて夜も眠れないだろうな、ああ、相続税を取り損なった」などということを公式の場で発言する人もいる。先は遠い。

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コミュニティ財団
もともとは米国で発達した財団の一種。あるコミュニティの市民・企業から資源調達して創立され、そのコミュニティに固有の問題を解決することを使命とする。市民の共感と支持を比較的得やすい(特に米国の場合には、市民の寄付のほか、そこに立地している企業が地域対策の一環として支持したり、市民の遺贈、成功したその地域出身者の故郷への寄付などが大きな資源になっているようである)ことから、インターミディアリあるいは社会装置化の有力な手段と考えられ、わが国でも大阪コミュニティ財団が平成3年(1991)に誕生している。平成12年(2000)現在同財団の基金規模は約10億円、年間助成額は1,800万円と、基金規模が数百億円ものがごろごろしている米国に比べると小振りであるが、堅実な活動を続けている。(もっとも日本が小振りなのはコミュニティ財団に限ったことではなく、基金5,000億、6,000億円の財団がいくつもあるのに、日本では最大のものでもその十分の一がやっと、ということではある。)

コミュニティ財団はさまざまなNPOに対する資源提供者としての機能のほかに、それらのフォーラムとして一種の求心作用を引き起こす「場」となりうるメリットもある。

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御用学者
「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」(広辞苑)。おもねようとしている限りにおいては曲学阿世と同じ。おもねっている自覚がないと確信犯になる。一流の御用学者は、一見反体制にみえて実は権力と癒着しているものだという意見もあるが、特にNPOを巡っては、にわかに学者のようなものになった人、なりたい人も多く、油断がならない。

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