NPO小辞典


排除の論理
どこかの政党が最近有名にした言葉だが、実はNPOの世界ではずいぶん旧くからまかり通っている。「あれは本当のNPOではない。われわれこそが真のNGOだ。」というのは典型的な例である。NPOが企業にすりよってオカネをもらうのは良くない、政府ODAへの協力は論外、というのもそれ。

多くの場合は、八分目水が入っているコップを見て、入っていない2割についてあげつらう、という性格の議論、あるいは、主導権を自分の手に保持したい、という動機が(本人が気づかないこともある)が裏に潜んでいることが多い。

告発型NGO というのも一定の機能を果たすから、すべての排除の論理を否定する必要もないが、社会機能から見てまだ脆弱なわが国のNPOが、小異を求めて大同を喪うよりは、協同して大義を追及する、という方が最終受益者にとってメリットが大きい。さらに、多元的な価値観の共存というのは本来NPO存立の基礎のはずだから、その点を忘れては自己撞着に陥るだろう。

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博愛
フラタニティ(fraternity)の日本語訳。「共通の目的、興味、あるいは楽しみのためにより集う、あるいは正式に組織される人々の集まり」(Webster)が原義。フランス革命時に自由・平等と並んで目標とされた。ジャック・アタリが、「自由の究極としての市場経済、平等の帰結としての社会民主主義がそれぞれに折り合いをつけることがむずかしくなり、自己破綻をきたしている中で、新たな統合原理としては博愛しかない」と言っているが、このコンテクストで用いられた時には、ほとんどフィランソロピーの類語といっても良い。

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橋の論理
関係者全員の意見が一致しなければ新しい変化は採用しない、という原則。かつて東京都知事美濃部亮吉氏が「1人でも反対者がいれば橋を架けない」という原則を、公共政策、特に公共事業の施行是非をめぐる判断に適用すると言明したこと(昭和46年6月30日第2回定例都議会)に起因する。

この原則はフランツ・ファノンの「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し舟に乗るかして、川を渡っていればよい」「この橋が市民によって考え直され、計画され、引き受けられるようにすべきなのだ。市民は橋をわがものにせなばならない。このときはじめていっさいが可能になるのである。」という言説の一部を美濃部流に編集したものである。

むしろ、1人でも反対者があれば提案は否決される、という例は18世紀までポーランドを支配していた大地主によって構成される議会が有名である。ポーランド分割を唯々諾々と受けざるを得なかった背景として、この制度による政治的無秩序状態を生き生きと描写した読み物(Mitchener)もある。何もポーランドまで行かなくとも、日本の多くの大学の教授会も好例を提供する。

わが国のNPO理事会などでも、建前としては多数決を標榜するが、事実上この「論理」によって運営されているものが決して少なくない。その功罪は明らかである。

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話せばわかる?
 5・15事件で刺客に対してこう言った(もちろんクエスチョン・マーク抜き)犬養毅首相が「問答無用」と暗殺された話は有名である。ここではそんな物騒な話ではなく、話してわかる人なら話さなくてもわかるし、話さなければわからない人には話してもわからない。というシニカルなコミュニケーションに対する見方を指す。確信犯原理主義者のみならず、思い込みの強いNPOとの会話に際してもみられがちな現象である。とはいえ、「だれでもわかることは、いずれわかるはずだ」(養老)という楽観的な見方もあることだから、あまり心配することではないのかもしれない。

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パブリック・サポート・テスト
 米国税法には、NPOの活動が広く一般の支持(public support)を受けていれば、一段と大きな税制上の優遇措置を付与しようという考え方がある。その判定の手法として内国歳入法(IRC)509条の採用する基準のこと。1件5,000ドルまたは年間収入の1%のいずれかを超えない額の助成金、寄付、会費、(大口の寄付は除くという主旨)および本来事業収入の合計が年間収入の3分の1を超えれば public charity というカテゴリーに該当するとされ、一般の private foundation に比してさまざまな優遇措置(税制に限らない)を受ける。日本でもNPO法による法人について、これに似た制度が導入された。当たり前の話だが、こういう計算をする時には何を分母・分子にとるかが問題になる。分母として計算するものが少なければ少ないほど、分子にとるものが多ければ多いほど結果は大きくなるからだ。その意味で日本の制度は数度の改訂は経たものの、米国のそれとは「似て非なるもの」(赤塚)である、と評判が悪い。

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ハリネズミと鷹
シカゴ大学のデサン教授によると、学者にはハリネズミと鷹の2種類があるという。前者は獲物を穴に引きずり込んで丹念に調べる。つまり微細な理論的整合性や部分的瑕疵の発見に一生懸命になる。一方後者は中天高くを舞っていて、新しい大きな獲物に襲いかかる。つまり新パラダイムや新規理論の発見にしか興味を持たない。大事なのは、この両者が健全なアカデミズムには必要だということなのだと言う。NPOの世界でも同様で、日常身辺の等身大の問題発見や解決に尽力する者も必要であるが、また、その問題発生の原因や社会の枠組みに目をむける存在も大切である。

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PPP
Public Private Partnership。政府、企業、NPO共同の活動と限りなく近いおまじないの一種。最近世界各地で広く用いられるようになった用語だが、それだけに「広義の民営化のプロバガンダ」「あるいはすでに起きた成功例を後づけでラベリングしただけ」で「こと理論という意味では」「あまりに大風呂敷だ」(上山)という見方もある。類似の観念としては民営化論のほかにニュー・パブリック・マネジメントは(NPM・行政改革に民間の経営手法を導入すること)などがある。

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PUS
Public Understanding of Science すなわち「一般市民の科学理解」を志向するさまざまな試み、あるいはそうした方向に向けてのものの考え方のこと。その背景にはさまざまな要因があるが、その主なものとして、1つには最近の先端科学施設には巨大な投資を必要とするものが多く、したがって国のプロジェクト、すなわち税金を投入せざるを得ないものが多い。これについてはタックスペイヤーたる市民が知る権利がある、というもの。2つ目に、専門家あるいは科学者は、知ってか知らずにか、新しい科学技術の導入についてはその明るい側面のみを強調するのが常で、その背後にある暗い面、あるいは可能な弊害については触れようとしないことが多い。これについて市民は少なくとも質問をしたり、危惧の念を表明するべきだ、というものである。
 科学ジャーナリズムを始めとする知識普及、NGOなどによるアドボカシーの他、デンマークなどに見られる政策形成過程への市民参加(コンセンサス会議といわれる)などの方法がある。

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非営利
営利の反対、つまりあがった利益を構成員で分けてしまわない、という意味で使う。企業の本質は営利性、つまりより多くの利潤を追及することにある、と規定し、あがった利潤は出資者への配当、内部留保、役員賞与など「自分のため」に使うことにある、とする。だから財・サービスの提供に携わるNPOがどのような動機で、何を目的として存在するのか、というときに、利潤動機による企業とは違う、という差別化のために用いられる観念である。

ただし、このモノサシが企業とNPOの活動の質的な違いについてどこまで役に立つか、については少し疑問なしとしない。というのも、企業の側に利潤動機以外のモチベーションと見られるものが徐々に色濃くなってきているほか、収入マイナス経費としての利益が収入(売り上げ)に占める比率は1.23%(平成8年・日経225社。税引前利益ではその約2倍)にすぎない。逆に言うと、同じサービスを1.23%(あるいはその2倍)安く提供できるかどうかに両者の本質的な差異があるとは考えにくいし、利潤が発生した時の処分の方法が両者を分かつキーポイントだとも考えられないからである。

この要素の持つ意味は、したがって、組織に対する投資家が、配当、キャピタル・ゲインなどの所得を期待するか否かの方だと思われる。つまり、企業にとって必須の資本調達は投資家の利潤動機(1義的には配当。しかしキャピタル・ゲインも結局同じことである)によって可能となるものであり、経営者の態度も当然それを反映したものになる。一方NPOに対して資源を提供する人はそういう見返りを期待したりしない。同時に経営者にとっても営利動機が経営判断の基準に入ることはない。

このモノサシがNPOと企業を分かつ1つの重要な差異であることを認めるとしても、さらにいくつかの要素を付け加えなければことの本質が明らかにならないと考える人も多い。その1つとしてよくあげられるのが、「思い」、あるいは志の問題である。NPOに働く人にとっては、収入や物質的報酬が直接の参加動機ではなく、「世のため、人のため」になることがしたい、というのが動機であり、組織もまた然り、という議論である。しかし、これは「生きがい」論と同じで非常に曖昧なモノサシである。高級官僚は「国のため」の仕事がしたくて、民間企業の高給を「蹴って」安い給料の公務員になったかもしれない。メーカーの研究所にいる技術者だって、福祉のための器具開発に情熱を燃やしているかもしれない。この世の中をより住みにくくするために努力する人は少なかろうから、立場に応じ、仕事によって、それぞれのところで頑張っているわけで、そのあり方の違いをモノサシとするのはいささかむずかしそうである。

顧客(ユーザー)の側の安心感、という意見もある。つまり金儲けのためならばウソをついたり、暴利をむさぼりかねないのが企業というものだ、と顧客が考えているとしよう。といっては言いすぎになるかもしれないが、企業と顧客の間で持っている情報に差があるという「情報の非対象性」の問題だ、といえばもう少し角がたたないかもしれない。そんな時に、利益追及が組織目的ではない、と言っている団体の方が信用できる、と思うのは自然だろう。そこで公共財については非営利組織による供給の方がより信頼を得られるし、したがって適してもいる。その限りにおいて非営利性は組織特性になる、という訳である。働く人の「思い」に比べると、こちらの方がいささか実用性がありそうだ。

NPOによる財・サービスの生産過程とその配付・流通過程をさらに検討することによって、その非営利性、つまり一般企業との異同を概観してみよう。

NPOとてその活動を行うためには、何らかの投入財(収入)に依存せざるを得ない。生産活動に経費がかかるのも当然である。この収入と経費の差額が利潤とか所得と言われるものだが、その限りではNPOと企業に何の違いもない。

一般企業とは、ここでいう利潤を極大化しようとする存在であるとされる。NPOにとってそれは活動の動機ではない。そこに違いはあるものの、算盤勘定としての出銭・入り銭に関する限り話は同じである。いつまでも収支あい償わなければそのNPOは消滅するほかはなかろうから、用意した投入財だけでは経費がまかなえないようならば、どこかからもっと資源を調達してくるか、さもなければ生産した財について何らかの対価を収受(販売)せねばならないかもしれない。

さて、NPOに利潤が発生したとしよう。経費を上回る収入が発生したわけだ。それを構成員に配分しない(非営利)、というのは、出資者に対する配当という型で還元したり、役員に対する賞与として給付しない、という意味である。経費名目で従業員に対して過剰な還元をするのもこれに含まれる、とされる。

このうち投資家が配当を期待できないことを承知の上で投資する、というのは見返りを求めない「寄付」である、というだけの話だからそれでよいとして、役員賞与と従業員に対する還元はどうなるのか。

NPOの役員賞与が好業績に対する成果配分という意味を持つわけではないから、これも問題ない。つまり一般企業で言うところの使用人給として、一般経費の中に含めておけばそれで足りる。従業員に対する厚遇も、後に触れる優秀な人材を採用するための世間並みの待遇、というのならば問題はないだろう。「人も羨む」ような高給を払って優秀な人材をリクルートしたいところだが、、非営利という性格からそれは許されない、としておこう。(実は受け取った本人が、所得税でがっちり税金は払うわけだから、別に税金を免れているわけではないが、この点については深く立ち入らない。)

では利潤(収支差額)を事業規模拡大、あるいは財団の場合に基金の積み増しに使うのは許されるのか。仮に認められるとして、事業規模に比較して「合理的な」シーリングがあるのか。つまり、まったく青天井で再生産に注ぎ込んでよいのか。たとえばある財団法人が基本財産の運用であげた収入のうち、10%だけを事業に費消して、残りの90%を基本財産の積み増し、あるいは内部保留として「将来に備える」ことは許されるのか。

もともとNPOが過大な内部保留を持つことについては、税制上の優遇措置との関係で問題とされた。つまりある財団が特定企業の大部分の株式を保有するようなケースを考えればわかりやすいのだが、課税を免れつつ富の蓄積が行われると同時に、それが本来の公益的な目的以外のところで機能することへの警戒である。

米国では資産を保有する助成金交付団体に対して、その資産額の5%を助成金として交付(give away)しなければならないというきまりがある。逆に言えば、5%さえ使っていればあとはご自由、という明快な定めである。しかし日本ではこの種の明確な規則は存在しない。ひとつには日本の財団社団は経済的にひよわな存在が多く、富の蓄積とか過大な社会的影響力というのはほとんど冗談のような話だからでもあるのだが、たとえばインフレに極度に弱い財団法人の場合には、少し真剣に考えておいた方がよいテーマではないかと思われる。財団は基本財産の運用益によって事業を行うわけだから、長期的に組織の継続を志向すれば、単年度とは言わないまでも、ある程度の期間に入ってきたオカネを全部使ってしまわないで、その一部を基金に繰り入れて、基金増額による安定化を図るほかはない。それと社会的に有意義な事業を的確に果たしていくことの調和点を求めるとすれば、平均金利、あるいは長期債利回りを超えた部分は内部留保をしてよい、というのが妥当なところであろう。

いまひとつ、NPOの生産する財・サービスには市場メカニズムによって、価格インディケーターで表示することが可能で、したがって競争的に供給され得るものと、まるでそれを念頭においていないものの2種類がある。(例によってこの中間的な存在もあるが、ここでは理念型としての2つだけを考える。)

前者は先進諸国における社会福祉、保健医療などが典型的な例。これについては一般企業との間に、NPOに対する優遇税制をめぐってイコール・フッティングの問題が発生するのは周知の通りである。

後者の例としては、たとえば途上国における(無料の)医療活動、冷戦後の安全保障の意味をめぐってのシンポジウム開催、環境問題についての政策提言などがあげられよう。これらはもともと対価を収受しようとか、経費を回収しようとするものではない。財・サービスを生産したところで仕事が終わっている。逆に言うと、こうした生産活動に資源提供をする人(機関)は、もともと投資に対する配当とか、金銭的な還元は度外視しているから、profit sharing の問題は起こりようがない。むしろ問題は需要に裏打ちされた供給でないことから、劣悪な品質のものが横行したり、資源が社会的に見て浪費されたりするのを防ぐ機能に欠ける点であろう。この欠点は一方で事業評価、他方で質の高い職員を雇用してプロフェッショナリズムに期待するほかはない。

ところがこの後者については、非営利性に関連するもう1つの問題として、非営利組織に働く人が「薄給に甘んずる」べきだという発想がとられがちだ、という点が大きな障害になる。つまり、あがった利益を構成員に配分してしまってはいけない、しがたって著しく高い給料には問題がある、というのをどんどん拡大解釈していくと、こうなるわけだ。非営利組織が果たす社会的機能が大きくなるにつれて、専門性やプロフェッショナリズムに対する要求が高まってくる。その場合、善意や奉仕精神に過大に依存していたのでは良質の労働力が確保できなくなる、という問題である。

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ヒエラルヒー型組織
階層と権限が明快に定められ、上意下達、命令伝達に適しているとされる組織。通例はNPOが採用してはいけない組織類型であると考えられている。つまり、この種の組織は構成員の自由な発想と創意工夫を封殺しがちである、という前提から、NPOはしなやかで、かたちにとらわれない組織理念を追及すべきだ、ということである。同時に、覇権を求めないというNPOの本質から、命令服従を組織原理とするのは、そぐわない、ふさわしくない、ということだ。まことにその通りなのだが、ことはそれほど易しくない。

NPOが常勤職員のごく少数であるミニ団体の場合には、教祖様のような中心人物のまわりに人が集まったり、非常勤のボランティアのグループリーダー的な仕事で結構収まりがついていることも多い。それでも、気の向いたことだからする、気の向いたことだけする、気の向かないことはしない、といった集団の経営は決してはたで見るほど簡単ではない。それが、さらに人数が増える、専門性が高まる、という運びになってくると、非・ヒエラルヒー型組織の運営にはまた別の困難さが加わってくる。

たとえば、専門性の質的向上には、言うまでもなく質の優劣についての「目利き」が必要である。「私はこれが正しいと思うからこうやります」「私は自分に正直でありたい」というレベルの議論は、もしかすると小規模の同質集団では美徳であったかもしれないが、NPOの別の段階では障害にさえなりかねない。さりとて、算数の時間に正解かどうかを多数決で決めるのがばかげた考えであるのと同じように、多数意見のみの尊重は間違いなく衆愚をもたらす。そうすると、何のことはない「たこつぼ」的な狭い専門性に閉じこもって、あれほど避けようとしたヒエラルヒー型組織と共通の落し穴に陥ることになりかねない。

これを回避するのには、よほど優れた構成員を厳選すれば良いのだが、それも言うほどに簡単なことではない。また、よほど優れた経営者が細かな気配りで組織を運営していくことになるが、明らかにこれも普遍的な解決策ではない。

NPOはさまざまな意味において実験的・革新的であり得るのだが、これもその1つの分野である。明快な解決策はいまだ発見されていないが、教育・訓練のプロセスと成果評価のシステム、それに参加型の意思決定をできる限り取り入れようとすること、そして組織の受益者を中心とする外部からのフィードバックというつ4の要素を極大にしようという努力がそれに近いと考えられる。

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評議員会
社員総会を持っている社団法人やメンバー制NPOと違って、財団法人の形態を取るNPOの場合には、理事会が意思決定機関であり執行機関であると理解すると、それに対して、チェック機能を持つ組織が制度的に存在しない。相互牽制機能を付与した評議員会を設置してこの役割を果たさせることが重要であるとされる理由がここにある。ただし、理事会に部外意見が反映される仕組みは現在でもかなり整っていると見れば、評議員会の機能はむしろ理事会メンバーの選定(およびそれに際して十分に多元的な意見が反映されることへの配慮)になるであろう。どちらの意味からも、評議員と理事の兼任はしないと同時に、親族関係を含む一定グループからの構成員を制限するなどの工夫が望ましい。
平成18年(2006年)の公益法人制度改革により、財団法人の評議員会は社団法人における社員総会と同等のものとすることになった。また、評議員の選出を理事会が行ってはならない、とした結果、みせかけの理事会・評議員会の相互牽制を廃して、財団法人ガバナンスは改善されたかに見えないではない。
ただ、評議員会を社員総会と同位置においたということは、理事会を株式会社にいう執行役員会のようなものとする可能性を残すべきであった。評議員会が多数の部外者によって構成され、理事会もまた漫然と多数の部外者を集めているのでは(別にそれが悪いというわけではないが)非能率きわまりない。むしろ理事会は有給執行役員のみによって構成される方が、性格がすっきりする場合も多いだろう。その場合には評議員会に理事長など理事会の主席がex officio (いわゆる「あて職」)として加わる方がいいに決まっている。一律に評議員と理事の兼任を禁止したのは、法律案を策定したのが財団運営の実務を知らない人が相互牽制の重要さを思って「膾を吹いた」のではあろうが、短慮であった。

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不作為
「(法)行為の一種で、敢えて積極的な行動をしないこと」(広辞苑)。本来これを最大の武器とするのは官僚ないし公的セクターであるという事実はよく知られている。「こういう理由でそれはできません」(したがって不作為)というのと「それを行うためにはこれをこう変えなければなりません」との間には百歩の差があり。後者こそはNPOたるものの心意気であることは言うまでもない。となれば、不作為に安住する態度こそはNPOにとって自己否定、あるいは緩慢な自殺行為であることは明白である。

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フィランソロピー
「同胞に対する善意、特に人々の福祉を向上させる積極的な努力を通じて表現されたもの、またはそれを行なう機関」(Webster)。仏教文化圏には古くから慈善という言葉があり、これでも不都合はなさそうなのだが、この言葉は本来の語義から離れて使用されるようになっており、それによれば、情をかけるという趣きがあったり、いささか与えられる方が見下されているという語感がある、さらには、積極的な市民生活の向上を意味する度合いが少ない、といった理由から最近この言葉を輸入して使うことが多くなった。

もともとはギリシャ語のphilos あるいはphileinつまり「愛」と、anthropos 「人間」の合成語だが、人のために何かをする、というのはなまじの覚悟ですべきことではなく、意の赴くままに愛するphiliaでは駄目で、たとえ意にそまなくとも愛する、つまりagape であるべきで、agapanthropyでなくてはならない(曽野)とする見解もある。

明治の先人が偉かったのは、経済とか市民とか、横文字を日本語にする努力を惜しまなかったことなのだが、最近ではどうも安易にそのまま外国語を使うことが多くなっている。それかあらぬか、「共生(ぐうしょう)のための公智」(林)といった表現を用いようとする試みもあるが、市民権を得るには至っていない。

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豚の逆立ち
プログラム・オフィサー」を見よ。

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プログラム・オフィサー
民間非営利組織で高度の専門性を持って事業の企画・実行にあたる職員。特に助成財団において、事業の選定、企画、調査にあたる職員を指すこともある。助成財団におけるプログラム・オフィサーの資質は「豚の逆立ち」つまりG I P (PIGの逆立ち!)に要約される。一番大事なGとはGood listener すなわち(特に助成先に対して)良き聞き手であること。説教がましかったり、押し付けがましいのは落第である。次に大事なI とは I O Cすなわち Intelligence 知性、 Originality 独自性、 Creativity 創意工夫。 最後のP とは P K O すなわちProfessionalism プロフェッショナリズム、Knowledge 知識、そして Organized way of thinking 組織だってものを考えられること。さらに、日常の仕事は3つの「思い」との格闘である。第1は「思い込み」で、これがなくては始まらないが、凝り固まっても困る。第2は「思いつき」。ひと味違った工夫ができなくてはいけないが、奇をてらっているだけでもだめ。第3が「思いやり」だが、これに溺れてもいけない。

 多くの日本の民間非営利組織では、主として財政的事情からプログラムフタッフを雇用したり、まして育成できないことから外部の審査委員会などにプログラム選定を委託しているケースが多い。一見公平かつ透明にみえるこの仕事の進め方も、表彰、賞の授与などの特殊な場合を除き、毒にも薬にもならない凡庸なプログラムの花盛りになるのは、多くの官庁が抱えている審議会・有識者委員会の類いをみればそんなに想像に難いことではない。行政組織の定員削減の過程で、専門知識が必要とされる業務の多くを部外に委託したり、コンサルタントに委嘱した結果、残ったのは大部分が総務部門だった、などという例もある。何よりも、民間非営利セクターがその地歩を確かにするためにはプロフェッショナリズムが肝要だという自覚が必要だろう。

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プログラム関連投資
財団などが、助成金を交付する、あるいは自ら行う社会開発プログラムなどに関連して、営利組織などに対して行う投資。Program Related Investment(PRI) 。英・米の財団に多く用いられる手法。たとえば都市スラムの解消プログラムを行う際に、非営利組織に対して教育訓練などの事業に助成する一方、地域の雇用創出や経済力向上のために、その地域にミニ・ショップやスーパーを設立運営する会社に出資する。非営利セクター単独で与える社会的影響力を拡幅しようとする態度で、いわばセクター相互の協力、営利・非営利のクロスオーバーのプロトタイプといってもよいだろう。

最近ではさらに一歩を進めて、投資関連プログラム(Investment Related Program・IRP)も現れるようになった。これは財団などがエイズ・ワクチンや農産物種子などのメーカーに出資、あるいは設立し、それの配付あるいは普及を非営利の事業として行おうとする。社会的起業家(Social Entrepreneur)とか、社会的事業(Social Enterprise)、また Venture Philanthropyなどと称されるものも、この系列に属する。

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プロジェクト助成
機関助成」を見よ。

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プロフェッショナリズム
Professionalism つまり専門性を備えること。プロ意識。

NPOはもともと普通の市民の善意とか思いやり、あるいはやむにやまれぬ気持、義務感にかられた行動を出発点にする。その意味ではアマチュアリズムであって一向に差しつかえないし、それを見下して考える必要はまったくない。しかしNPO活動が拡大して、社会的に一定の機能を果たすようになるとどうしても専門性が要求されるようになってくる。これは現場で活動する人についても言えることだが、組織の経営(マネジメント)についてもいっそうそれが望まれるようになる。「善いことをしているだけでは不十分で、善いことをうまくやらなければならない」(ドラッカー)のだが、ボランティア活動が多数の「善意の素人」を下支えにせねばならないこととの間にいくつかの波紋を呼ぶことになる。

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屁理屈
つまらぬ理屈。道理にあわない議論(広辞苑)。または、理論的に説得されて納得がいかない時くやしまぎれに相手の議論をこう呼ぶこともある。この表現自体死語になりかかっているが、市場原理が通用しないNPO界では、時としてこうとしかいいようのない珍妙な三段論法に遭遇することがある。「われわれは良いと信ずることを行っている。だから結果をとらえて批判されても困る。なぜならNPOとは志を大事にするものだからである。」「NPOは現場密着であるところに存在意義がある。現場にいるものが理解できないようなNPO研究には意味がない。」

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ボランティア
「自ら進んで社会事業などに参加する人」(広辞苑)、「社会の生活問題の解決のために自発的、自主的に取り組む人びと」(知恵蔵)、というのがおおよその定義。だからボランティア活動といえば自発的な社会奉仕活動を意味するのが一般的である。民生委員などの制度ボランティアといわれるものも広い意味ではこの範疇に入る。

ボランティアをするのは、自分やお身内のためだけではない、というのはよいとして、手弁当で、持っている能力を用いて、できる時にやります、という側面に少し問題が出てきている。つまり、一過性の善意の発露という域を超えて、社会的に一定の機能が期待されるようになってくると、無償性の問題、要求される資質の問題、需給調整の問題が表面化してくる。

現在500万とも1000万ともいわれるボランティア人口が、NPO活動の基盤を作っており、その数も今後いっそうの増加が予測される、という趨勢からは、ボランティアという断面だけをとらえてその純粋性とか、瑣末な違いを議論するのではなく、広く民間非営利活動の活性化、という時系列から「永い目」で見ることが望ましい。

ちなみにvolunteerの原義は(義務的な徴兵ではない)志願兵。これによればボランティアだから好きな時に参加していやになったらやめればよい、のではなく、要は参加の動機にすぎない。原点に立ち戻ってみるのもよいかもしれない。

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